今の京都の基礎をつくったのは豊臣秀吉だった 平安京造営から800年後に行われた「大改造」

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実は秀吉が最も大規模な都市造営を行った場所は京都でした(写真:泣き虫/PIXTA)
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京都といえば、平安時代の貴族文化や、室町時代の北山文化・東山文化といった「雅(みやび)」なイメージがある。だが、京都を都市の視点から見てみると、今日の京都を形づくったのは天下人となった豊臣秀吉だったことはあまり知られていない。豊臣秀吉というと「派手好き」「成り上がり」で、壮大な大坂城を建造したことから京都とは結びつかないかもしれないが、実は秀吉が最も大規模な都市造営を行った場所は京都だった。今日にも多く残る秀吉による京都大改造の痕跡とその実態を『カラー版 地形と地理でわかる京都の謎』から、一部抜粋、再構成し、お届けする。

実は長方形になっている京都の区画

京都というと碁盤目状に整然と区画された町のイメージがあるだろう。延暦13(794)年に造営された平安京は、東西約4.5km、南北約5.2kmの規模の計画都市で、北端には中枢施設である平安宮(大内裏)があった。東西南北にそれぞれつくられた大路は約500メートル間隔で設けられた。1区画は約120m四方の正方形のブロックとなった。ところが現在の京都の市街を見ると正方形のブロックは少なく、南北に長い長方形であることが多い。これは、平安京造営から約800年後の豊臣秀吉による京都大改造によるものだ。

天正地割による京都の町の変化(画像:宝島社)

秀吉はそれまでの正方形のブロックの真ん中に南北に道を通し、半分の大きさの長方形のブロックに変えた。この区画の変更=地割(ちわり)は天正年間(1573〜1592)に行われたことから天正地割と呼ばれる。

秀吉はなぜ、わざわざこのような地割を行ったのか。正方形の場合、その区画の四辺に住居や商店が建てられ、中央部分が空き地になることが多く、農地として利用されるなどしていた。秀吉が行った政策のひとつとして太閤検地がある。ところが地割の中央に農地があるかどうかは把握しづらい。お膝元の京都で太閤検地が正確に行えないようなことになれば、制度の信頼性を失いかねない。

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