今の京都の基礎をつくったのは豊臣秀吉だった 平安京造営から800年後に行われた「大改造」
実は長方形になっている京都の区画
京都というと碁盤目状に整然と区画された町のイメージがあるだろう。延暦13(794)年に造営された平安京は、東西約4.5km、南北約5.2kmの規模の計画都市で、北端には中枢施設である平安宮(大内裏)があった。東西南北にそれぞれつくられた大路は約500メートル間隔で設けられた。1区画は約120m四方の正方形のブロックとなった。ところが現在の京都の市街を見ると正方形のブロックは少なく、南北に長い長方形であることが多い。これは、平安京造営から約800年後の豊臣秀吉による京都大改造によるものだ。
秀吉はそれまでの正方形のブロックの真ん中に南北に道を通し、半分の大きさの長方形のブロックに変えた。この区画の変更=地割(ちわり)は天正年間(1573〜1592)に行われたことから天正地割と呼ばれる。
秀吉はなぜ、わざわざこのような地割を行ったのか。正方形の場合、その区画の四辺に住居や商店が建てられ、中央部分が空き地になることが多く、農地として利用されるなどしていた。秀吉が行った政策のひとつとして太閤検地がある。ところが地割の中央に農地があるかどうかは把握しづらい。お膝元の京都で太閤検地が正確に行えないようなことになれば、制度の信頼性を失いかねない。
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