今の京都の基礎をつくったのは豊臣秀吉だった 平安京造営から800年後に行われた「大改造」

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天正地割が行われたもうひとつの理由はより多くの税収が見込めるからだ。当時は間口の幅、つまり道路に面した建物の正面の幅の広さによって税金の額が決められていた(間口税)。正方形を2つに分けて長方形にすれば、税収とは無関係だった中央の空き地部分にも商店や住宅が建てられ、より多くの間口税を徴収することができるのだ。

天正地割が「よそもん」の大量移住を可能にした

京都人は「よそもん」が入ってくることを嫌う傾向があることが知られているが、この天正地割は、「よそもん」の大量移住を可能にするものでもあった。日本の多くの街では、道路を隔てると町名や丁目が変わる。地図で見た場合、道で囲まれたブロックごとに町名や丁目が付けられているのが一般的だ。ところが京都では、ブロックごとに町名や丁目が分けられておらず、1ブロックに複数の町名が混在していることがよくある。これは、室町時代以降、通りを挟んで向かい合わせの住居や店で町を分けたためである。これを「両側町」と呼ぶ。

実際に生活してみれば、この両側町は実に合理的である。普段生活している中で、コミュニケーションを取るのは、建物が背中合わせになっている背後の住人ではなく、玄関(間口)がある通り沿いのご近所さんだからだ。

天正地割が成功したのは、京都にこの両側町のシステムがあった点もあるだろう。正方形の地割りを半分にすることで、真ん中に新たな両側町ができるからである。つまり新しくできた両側町に「よそもん」が転入することになり、古くからの両側町の人々から嫌厭されるようなこともなかったのである。

秀吉が行った京都大改造はこれだけではない。社会を安定化させるためには、朝廷が政治利用されないように京都に新興勢力が容易に侵入できないようにする必要性があった。そのため秀吉は京都の市街地を御土居と呼ばれる土塀で囲むことにした。

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