織田信長「実は保守的」カリスマ像が揺らぐ事情 長篠の戦いで「鉄砲三段撃ち」はなかった?
また、武田軍もかなり多くの鉄砲を所持していたことがわかってきました。ただ、武田軍には鉛が不足していて、銅銭を原料とする銅を溶かした鉄砲玉を用いていたことも明らかになりました。
一方の織田軍の玉ですが、分析の結果、なんと、タイの鉱山の成分と一致するものがありました。おそらく、海外から何らかのルートで入手していたのでしょう。ちなみに長篠城の近くには鉛鉱山があり、この戦いは、鉛をめぐる争いだったという新説も登場してきています。
また、有名な武田騎馬隊ですが、そもそも騎馬隊が存在したかどうかについても諸説あるのです。まあ、私としては信長の勝因は、単なる数の差(織田・徳川連合軍は武田軍の2倍以上の数)だったでのは? と思ったりもしますが……。
楽市・楽座は多くの大名がすでにやっていたこと?
では、楽市・楽座(楽市令)はどうでしょう? これについても、その評価は大きく変わっています。楽市令というのは、特権的な同業者(商人、職人)の組合(座)を認めず、市場税なども免除して誰もが自由に商売に参入できるように命じた法令です。よく日本史の教科書では、安土山下(さんげ)町(安土城の城下町)に発布された楽市令が原文で紹介されています。
しかし研究者の柴裕之氏は、
「長らく『革命児』信長のイメージのもと、信長による画期的な事業として位置づけられてきた。しかし『楽市楽座』は各地の戦国大名のもとでもおこなわれていたこと、また、その背景には、それぞれの地域の固有の地理的条件や歴史的状況があったことが明らかとなって」おり、「安土山下町の場合、織田権力の拠点と化したことで急ぎ開設された新興都市であったという地域事情から、この都市の振興のための措置が必要とされた」のだとし、座によって「市場流通が支障なく運営されるようであれば、座を保護する姿勢を示した」(『織田信長 戦国時代の「正義」を貫く』平凡社)と述べています。
つまり、教科書の記述にあるような、伝統的な既得権益集団である座を容赦なく解体し、各地の市場の税を撤廃して自由な商活動を認めたのが信長の功績だとする見方は、もう古くなりつつあるのです。このように信長の評価は、まさに今、過渡期にあると言えるでしょう。
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