織田信長「実は保守的」カリスマ像が揺らぐ事情 長篠の戦いで「鉄砲三段撃ち」はなかった?
まずは、この文章を読んでみてください。
「信長は、家臣団の城下町への集住を徹底させるなどして、機動的で強大な軍事力をつくり上げ、すぐれた軍事的手腕で次々と戦国大名を倒しただけでなく、伝統的な政治や宗教の秩序・権威を克服することにも積極的であった。
また経済面では、戦国時代におこなっていた指出検地や関所の撤廃を征服地に広く実施したほか、自治都市として繁栄を誇った堺を武力で屈服させて直轄地とするなどして、畿内の高い経済力を自分のものとし、また安土城下町に楽市令を出して、商工業者に自由な営業活動を認めるなど、都市や商工業を重視する政策を強く打ち出していった」
これは、高校日本史の教科書『詳説日本史B』(山川出版社 2021年)の織田信長の業績を紹介した部分です。
どうでしょうか。房野さんが信長の新説を語ってくれましたが、実は今も学校では、信長という人物が大変革新的で、これまでの伝統的な権威や政策を一新したと書かれているのです。
三段撃ちというよりレジ打(撃)ち?
それでは、長篠の戦いについて、いまの教科書ではどんなふうに紹介されているのかと言えば、
「長篠合戦では、鉄砲を大量に用いた戦法で、騎馬隊を中心とする強敵武田勝頼の軍に大勝」(『詳説日本史B』山川出版社 2021年)
このように書かれています。
ただ、みなさんのイメージだと、織田の足軽鉄砲隊が3000挺の鉄砲で三段撃ちを行い、無敵の武田騎馬軍団を撃破したという印象があると思います。
これって、小瀬甫庵の『信長記』や太田牛一の『信長公記』の記述がもとになっているのです。当時の一次史料として、長篠の戦いの経緯を詳しく書いたものはまったく存在しません。
ですから、いろいろな研究者が間接的な史料や証拠をもとに、さまざまな説を唱えているのが現状です。そうした中、近年は「三段撃ちは否定」される傾向にあり、レジ待ちのように、弾が装填できた者が順番に次々と撃っていたという説が有力になっています。