織田信長「実は保守的」カリスマ像が揺らぐ事情 長篠の戦いで「鉄砲三段撃ち」はなかった?
たしかに信長は義昭を京都から追放しました。が、それはあくまで「結果的に仲違いした」ということであって、最初から幕府を滅亡させようとしていた証左にはなりません。
むしろ信長は「室町将軍の政治を復活させよう」と動いており、ドラマなんかでよく見かける「足利義昭(室町幕府15代将軍)は信長の傀儡だった」という説も、最近の研究では否定されています。あるときまでの2人は武力と権威を補完し合う、完全にWin-Winの関係だったんですね(のちに対立しますが)。
京都で行った前代未聞の馬フェス「馬揃え」
さらに、関係性の変化で言うなら「信長と朝廷」もピックアップしたいところです。これまでは、「信長は天皇や公家をも排除しようとしていたのでは?」「日本の国王になろうとしていたんだアイツ」と、かなりロックな見られ方をしてきた信長さん。
実際それを証明するトピックはいくつかあって、よく取り上げられるのが「馬揃え」です。
「馬揃え」というのは、収集した名馬を披露するパレードのことで、信長はこれを京都で行いました。家臣と名馬を京都に集合させ、馬に乗る武将たちはド派手な格好、信長自身も超絶派手派手スタイル、見物人は数十万人とも言われる、前代未聞の馬フェスを開催した信長。
ただこのお祭り騒ぎが後世、「朝廷に対する脅しだ! 信長は自分の力を見せつけるために馬揃えをおこない、正親町(おおぎまち)天皇や朝廷を威圧したんだ!」と、言われてきたんです。
たしかに、自分たちのテリトリーで圧巻の一大イベントを見せつけられた公家たちは「信長ヤバすぎる……」と恐れおののいたでしょう。
でも、この馬揃えをお願いしたの、朝廷なんです。京都での開催より以前、信長は安土で馬揃えをおこなっているのですが、それを聞きつけた朝廷は、「京都でもやってくんないかなー!」とのオファーを信長に出し、これを受けた信長側も、「ちょうど正親町天皇に見物していただこうと準備してたとこなんすよー!」と、この要望を快諾。
朝廷側は、前年に病死した誠仁(さねひと)親王(正親町天皇の皇子)の生母・房子の忌み明けに際し、信長の行う華やかな馬揃えを望んでいたと言われ、こうして決行されたのが京都での馬揃えだったんですね。