「陰謀論の魔力」に感情を操られてしまいがちな訳 「物語」そのものに内在する「副作用」とは何か

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「悪い物語」は表面的には多様であるが、その筋書きはほとんど共通している。これらのストーリーは、『現在の世界は多勢の「悪」によって支配されている』と人々に信じ込ませようとするのだ。そして、もし自分が勇気を出して「悪」に刃向かい、抗議運動を起こしたり真実を布教したり「悪」に対して直接的な攻撃を仕掛けたりすれば、自分は「善」の側に立つことができる。物語の中に入り込んだ人々は、現実世界で行動をしながらも、御伽噺の主人公であるかのような感覚を味わっているのだ。さらに、いちど入り込んだ物語のなかから脱出することは困難である。

とはいえ、善と悪の対立を強調するのは「悪い物語」に限られたことではない。むしろ、漫画や映画のような無害に思われるフィクション作品でも、善人が悪人に立ち向かうストーリーは定番のものだ。物語は、特定の要素が入っていたり一定の形式で語られたりするときに、人々を惹き付けてコントロールする力を増す。「誰かと別の誰かが争って、勝敗が決する」という「社会的対立」が含まれるストーリー、そして「善が勝利して悪が敗北する」という「道徳主義」に基づいたストーリーこそが、わたしたちが抗うのが最も難しい魅力的な物語であるのだ。

対抗するための最大の武器は「科学」

本書の後半で強調されるのは、ストーリーが拡散されて影響力を持つためには「善対悪」の二項対立を主軸とする単純なものにならざるをえないから、たとえ正しい意図に基づいた「よい物語」であってもストーリーは副作用を生じさせるという事態だ。

社会で起こっている問題についてストーリーを語ってしまうと、その時点で、問題を生じさせている原因や構造について客観的に理解して適切な対策を取ることからは遠のいてしまう。ストーリーを受け取った人々は問題の背景に「悪人」を見出して、彼らを非難したり糾弾したりすることを、問題解決よりも優先してしまうからだ。また、ドラマを観た視聴者は主人公たちと同じ属性の人に対する共感を増す一方で、悪役に配置された属性の人々に対する憎悪も募らせることになるだろう。

「悪い物語」であろうが「よい物語」であろうがストーリーが社会に悪影響を与えるのだとすれば、まず考えられる対策は、一切の物語を社会から放逐することである。これこそが、古代ギリシアの哲学者プラトンがその著作『国家』のなかで主張したことだ。当時のギリシアにおいては詩人がストーリーテラーの役割を担っていたが、理想国家に詩人が存在する余地はない、とプラトンは主張したのだ。……もっとも、実際には、ストーリーテラーや物語をわたしたちの社会や人生から追放することはできない。人間とは生来的に物語を希求する存在であり、物語を抜きにして人生を過ごすことは不可能だ。だから、詩人を追い出したところで、別の誰かが物語を作成して、必然的に新たなストーリーテラーたちが登場することになる。

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