実は子どもに「恥をかかせている」絶対NGワード 知らずのうちにこんな言葉を使っていませんか
悲痛な現実がある。幼少期の大部分を、見守られることなく、理解されたと感じることもなく過ごす子どもがいる。そういう子どもがどんな気持ちでいるか、想像してみてほしい。先生や、クラスメートや、親を思い浮かべるときでさえ、1つの考えが頭をよぎる。
「どうせ、わかってくれやしないんだ」
なぜ子どもは見守られ、理解されていると感じられなくなるのか? ときとして、それは親が、子どもの個性や情熱や行動よりも、自分の望みや恐れや問題に関係した〝レンズ〟を通して子どもを見ているからだ。
この固定されたフィルターのせいで、子どもを理解して、細やかな方法で対応するのがむずかしくなる。もしかすると親は、1つのレッテルに執着するようになって、「この子は末っ子だから」とか、「あの子は活発な子(あるいは内気な子、または変わった子、センスのある子)なのよ」などと言うかもしれない。あるいは、「息子はぼくにそっくりで目立ちたがり屋なんだ」とか、「娘はお父さんにそっくりで頑固者なの」とか。
親が子どもを把握して分類するために、レッテルや比較、ときには診断まで使ってこんなふうに定義してしまうと、ありのままの子どもの全体像をきちんと見ることができなくなる。確かに、人間である私たちの脳は、入ってくるエネルギーの流れをなんらかの概念やカテゴリーに当てはめて整理する。それが脳のすることだ。
しかし、私たちが挑戦すべきなのは、そういうカテゴリー分けに気づいて、子どもに対する見かたを制約するその影響から心を解き放つことだ。
「なまけ者」と言われ続けた子の後ろにあるもの
たとえば、親はよく自分の子どもについて、「なまけ者」という言葉を使う。ときには、子どもがあまり勉強をしない、あまり練習をしない、すすんで家事を手伝わない、などが理由になる。こういう親たちは、「なまけ癖」を性格上の欠点と考えることが多い。
しかし実のところ、親の期待や望みに比べて子どもの努力が足りないとき、そこには親が考えてもみなかった、もっともな理由があるのかもしれない。
あなたの娘が国の首都をなかなか憶えられないのは、なまけ者だからではなく、対処すべき「学習障害」があるからかもしれない(実は、障害のある子は、たいていのクラスメートより努力しているのによい成績が取れないことが多いので、親はもっとがんばる必要があるのではないかと考えている)。