「21世紀の日本人」を知るための「神道」という教養 粗雑で暴力的な「純粋化」という誘惑に抗して

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浅草寺の雷門。浅草神社は浅草寺宝蔵門の右奥にあり、神仏習合が現存する例として知られています(写真:momo/PIXTA)
神道研究の第一人者・島薗進氏が、その歴史を通して、神道の実像を解き明かした新刊『教養としての神道:生きのびる神々』。
外来のものと土着のものが共生した「神仏習合」を雑種文化として高く評価する、思想家で武道家の内田樹氏が同書を読み解く。

道場に神仏に祈るための仕掛けがないと困る

本題に入る前に、私事について少し話すことにする。私がどういうふうに神道に接近してきた人間であるか、それを明らかにしておきたい。私は神道に対してニュートラルな立場の人間ではない。その偏りを明らかにしておかないといけないと思う。

教養としての神道: 生きのびる神々
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私は合気道という武道を長く修行していて、大学で学生に教え、門人も取っている。長く公立の体育館の武道場を借りて稽古をしていたのだが、何となくもの足りない。神棚がないからである。公立の施設は「政教分離」の建前があるから、すべての宗教的な要素が排除されている。でも、それでは困る。神棚でなくてもよい。禅語を記した扁額でもよい。十字架でもいい。道場である以上、超越的境位に通じる回路がないと場として成り立たない。

「道場」というのは、もとは仏道修行の場のことである。そして、武道というのも、原理的に言うと、人間の統御になじまない巨大なエネルギーをわが身のうちへ導入して、調えられた身体を経由してそれを発動する技術である。ある意味では「この世ならざるもの」と交渉する技術である。

だから、武道の道場に神仏に祈るための仕掛けがないと困るのである。公立施設で行われる武道の試合や講習会に参加すると、情けないことに「非常口」とか「火気厳禁」というような看板に向かって「神前の礼」をすることを求められる。「日の丸」を掲げてあって、それに礼をせよと言われることもある。申し訳ないが、国民国家の国旗は世俗的な政治的象徴ではあっても、超越的境位への回路ではない。それがずっと不満であった。だから、どうしても自分の道場が欲しかった。

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