「21世紀の日本人」を知るための「神道」という教養 粗雑で暴力的な「純粋化」という誘惑に抗して
しばしば神道は稲作文化に由来するものだと言われる。米、餅、酒のような米製品を「神饌」として他者を歓待するのは稲作文化圏固有の風習だからである。この主張をなす人たちは、伊勢神宮から村々の小さな社まで、その祭祀のかたちが「まったく変わらない」とする。「米にかかわる神饌を重視する点は、古代から現在まで一貫しているように思われる」(前掲書17頁)のであれば、神道は古代から現代まで「まったく変わらない」本質を維持しているということになる。皇室、伊勢神宮の祭祀こそが「神道の本来の姿」だという神道理解はこれを根拠にしている。
しかし、島薗先生は稲作以前にも原神道と呼ぶべきものが存在したのではないかという学説にも十分な説得力を認める。稲作が広がる以前の日本列島は鬱蒼たる森林におおわれており、そこが生命活動の中心であった。そこが「神の降りる場所、神と出会う場所」であるという感覚はおそらく今も生きている。「森の文化」のうちに日本的宗教性の源流の一つを見ようとするこの立場に島薗先生は親和的である。それは神道をいろいろな時代のいろいろな文化に起源を持つ、多起源的なものと想定しないと、その驚嘆すべき変異を説明することがむずかしいからである。
神道に「本来の姿」が存在しない理由
何についても、ものごとには「本来の姿」があり、歴史的な遷移はその「本来の姿」が外来の異物の混入によって「汚染」されたせいで起きているので、外殻にへばりついた異物を削ぎ落して、原初の姿に立ち返ることで、ものごとは本来持っていた力と純粋さを回復することができる……という考え方は世界中に存在する。宗教だけではなく、政治体制や種族の文化についても同じような話型を偏愛する人たちは非常に多い。おそらくどんな国でも、国民の過半はこの「本来の姿」仮説に親和的であるだろう。現に、「神仏分離」もアーリア人種優位説も「Make America great again」も構造的にはよく似ている。むろん、この話型が支持されるのは、それだけ誘惑的な物語だからである。
けれども、私は基本的にこのタイプの社会理論に対しては懐疑的である。それでは説明できないことが多すぎるからであり、かつ「純粋化」がほとんどつねに暴力を伴うからである。にもかかわらず、この粗雑で暴力的な理説が全世界で人々を惹きつけ続けてきたのは、単にそれが最も知的負荷が少ない説明だからである。島薗先生は私ほどあからさまな言い方はされないけれど、たぶん内心ではそう考えているのだと思う(違ったらごめんなさい)。
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