「21世紀の日本人」を知るための「神道」という教養 粗雑で暴力的な「純粋化」という誘惑に抗して

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だから、簡単に「神道の本来の姿」というようなものを提示しない。話はそこから始まるのではないからだ。もし「神道の本来の姿」というようなものがこの後(島薗先生自身の研究を含めた)歴史学や考古学の成果として検出されたとしたら、その時、そこで「話は終わる」のだろう。だが、神道について「話が終わる」ということはたぶん起こらない。というのは、古代の「原神道的な祭祀と信仰」から、現代の神社本庁や日本会議のような過政治化した神道や、私がいま修しているようなもっと生々しく「アニミズム的なもの」への好尚まですべてを含む「神道」はつねにオープンエンドの、生成過程のうちにあるからである。

だから、島薗先生が神道について「教養」という立場を採られたのだと思う。

私たち自身を知るための本

「教養」として教えるということは、一つの学説を宣布することとは違う。単一の学説を述べるのであれば、自説に適合する事例だけを列挙し、自説に合致しない事例は重要性がないと退ける。けれども、それは「教養」という教科の趣旨になじまない。「教養」はむしろ神道の歴史的変異種を、その極端に逸脱したものを含めて、できるだけ多く網羅しようとする。

6月24日(金)に島薗進さんの『教養としての神道:生きのびる神々』刊行記念オンラインイベントを実施します。詳しくはこちら(写真:島薗進)

たしかにそういう網羅的な記述は「神道とはこういうものだ」という単一解を早く手に入れたいという読者には向いていない。その人たちは「早く神道問題を片付けて、次の問題に進みたい」のだろうが、残念ながらそうはゆかない。島薗先生は堀一郎の次のような言葉を冒頭近くに引用している。これはたぶんそのまま島薗先生の神道理解だとみなしてよい。

「『神道』の名のもとに包括しうるような日本的潜在意識は、わたしの見るところでは、主として日本社会の構造と価値体系と、これらと表裏をなす神観念と儀礼を含む宗教構造から導かれたようである」(前掲書19頁)

そうであるとしたら、その「日本的潜在意識」は21世紀の日本人をも深層において共軛しているはずだからである。

本書は神道についての深く広い知識を得るための書物であるけれども、それと同時にというよりそれ以上に、私たち自身を知るための本なのである。

内田 樹 思想家、武道家、神戸女学院大学名誉教授

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うちだ・たつる

1950年東京都生まれ。思想家、武道家、神戸女学院大学名誉教授。東京大学文学部仏文科卒業、東京都立大学大学院博士課程中退。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。凱風館館長、多田塾甲南合気会師範。著書に『ためらいの倫理学』(角川文庫)、『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫)、『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書、第6回小林秀雄賞受賞)、『日本辺境論』(新潮新書)、『街場の天皇論』(東洋経済新報社)などがある。第3回伊丹十三賞受賞。

 

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