「一ノ谷の戦い」源義経に敗れた平家の悲痛な末路 一門の名高い武将が次々に戦場で散っていった
「平家物語」に生々しく描かれる平家一門の敗北
一ノ谷の戦いで、源氏の優勢を決めたのは、源義経ではなく、摂津源氏の多田行綱だった。行綱により敢行された山方からの攻撃が、平家の軍勢を分断し、源氏が勝利をつかむことができたのだ。福原を守る平家本軍が行綱の奇襲により分断。大手口(陣地の正面)や搦手口(からめてぐち、陣地の裏側)からも軍勢を回さなければならなくなり、両防衛線は脆弱となり、平家は敗北していったのだろう。
一ノ谷における平家敗北のもう1つの理由は、朝廷(後白河院)が和平の使者の派遣を予告していたこともあるかもしれない。「合戦をしないように。そのことは源氏軍にも言ってある」との書状に平家軍は油断したのではないか(『吾妻鏡』)。
平家は大敗北し、一門の人々も多く死んでいく。『平家物語』にはその様子が生々しく描かれている。武蔵国の住人・熊谷直実は「よい大将軍と戦いたいものだ」と磯に向かい、馬を進めていたところ「萌黄匂の鎧を着て、鍬形を打った甲の緒を締め、黄金作りの太刀」を帯びた敵将を発見する。沖の船を目指して逃げようとする敵将に向かい「卑怯なり」と挑発した熊谷。
その敵将が引き返し、渚に上がったところを、熊谷が組み付き、格闘となる。しかし、熊谷がいざ敵将の甲を押し上げてみると、16歳ばかりの、自分の息子と同じ年頃の若者の顔があった。この若者こそ、平敦盛。平経盛の子で、清盛の甥にあたる16歳の少年である。
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