高校はもちろん、野球の強い学校に特待生として進学した。さまざまな地域から野球の得意な生徒たちが集まってくる。
「高校に入ると、やっぱり次元が変わってくるんですよね。すごい先輩のプレーを見ると、『やっぱ違うな』って思うわけです。でも、まだ自分も高1ですから、これからまだまだ伸びるぞってめげずにやってました。
練習は死ぬほど厳しかったです。365日中、364日は練習している感じでした。僕の時代は『練習中は水飲むな!!』が当たり前でしたから。監督も先輩も厳しくて、体罰も当たり前でした。いつしか、監督に怒られないために野球をやっているような気持ちになってきて、段々野球が面白くなくなってきました」
甲子園へは結局行くことはできなかった。
河原崎さんが行っていた私立高校の野球部よりも、絶対に練習量の少ない公立高校の野球部に負けた。
「試合後、監督からは
『人生っていうのは、こういうもんだ』
って言われました。まあ、その通りだとは思います。でも、そのときは納得できませんでしたね」
プロに進んだ同級生との衝撃的なキャッチボール
河原崎さんの同級生のほとんどは卒業して就職していった。しかし河原崎さんはまだ、野球を捨てられなかった。大学野球の強い青森の大学に進学した。高校のとき以上に、全国から野球の猛者たちが集まってきていた。
「同級生に細川亨っていう、卒業後に西武ライオンズへ入団した男がいました。彼とキャッチボールをしたんですけど、彼の1球で僕の野球人生は終わりました。彼が適当に投げたボールの強さ、弾道、スピード、素晴らしかったです。僕とはレベルが違いました。
『プロに行くヤツっていうのは、このレベルなのか』
ってまざまざと見せつけられました。大学1年にして、プロには絶対行けないと悟りました」
河原崎さんはそれでも大学をやめなかった。
しかし野球以外にも熱中できることが欲しかった。
時間を少し巻き戻すが、大学進学が決まった17歳の秋、河原崎さんは父親からアドバイスを受けた。
「親父から
『大学1年の間は決まりで自動車も乗れないんだから、部屋でなんかやれる趣味があったほうがいいぞ。ギターでも弾いたらどうだ?』
って勧められました。音楽はそれまでほとんどやってこなかったのですが、ギターを弾ける人には憧れがあったので、楽器店に行って安いギターを買いました。Gコードを弾いたら、身体に電撃が走るくらい気持ちがよくて、1週間で2~3曲弾けるようになって、名古屋の金山駅に行ってストリートライブをしました」
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