社長は、知人の紹介を受けCBCの局員に話をしてくれた。結果、CBCサイドからは
「お金を払ってCMの枠を買うことはもちろん可能ですが、どうせお金を払うならラジオ番組をやりませんか?」
という意外な答えが返ってきた。
「僕としては願ったり叶ったりでした。ただ僕には先立つものがなかったので、社長には今後発生するギャラやグッズ販売の収入などは1円もいらないので、番組をやらせてくださいとお願いしました」
2009年11月14日、そのような変則的な形で『河原崎辰也 いくしかないだろう!』の放送ははじまった。
もちろん最初は長く続く予定はなく、半年で終わる予定だった。
30歳、ラストチャンスに懸けた
「番組開始の年がちょうど30歳になる年でした。30歳ってどうしてもラインを引くじゃないですか。芸能活動はもうラストチャンスだと思いました。全部出し切るつもりで挑みました。実はラジオ・パーソナリティになりたいと思ったことは一度もなかったんです。特別な勉強もしませんでした。ただ、がむしゃらに、生意気に、ガツッと喋りました」
番組は1テーマを決めて(例えば『恋』『親孝行』など)それについて自分なりに熱く話すという内容だった。
その熱いトークが局員の間で面白いと認められ、番組の延長が決まった。
だが、まだ一部の局員、リスナーが知っているだけだった。
番組2年目の年、CBCラジオが開局60周年記念をむかえ、特別番組を放送することになった。そこでメイン企画のパーソナリティに選ばれたのが、河原崎さんだった。
『河原崎辰也 歩けばわかるさ!』では、河原崎さん自ら、愛知、岐阜、三重、の60カ所をギターを担いで歩いて移動し、目的地で路上ライブをするという壮大な企画だった。
「歩いた総距離は700キロを超えてますから、たしかに高齢のパーソナリティには厳しいですね。だから若い僕に白羽の矢が立ったんだと思います。1年がかりの企画でしたから、リスナーの人たちにも、ラジオ局の人たちにも名前を知ってもらえる大きなチャンスになりました」
番組がはじまり4年目にして、契約が変わり、枠を買って放送するという形ではなくなった。
「放送時間も長くなって、生放送もやらせてもらえるようになりました。プライベートでは長年付き合ってきた女性と2013年に結婚しました。
ラジオを始める前から比べたら、随分うまくいっていましたが、まだ『全国で活躍したい!!』という気持ちが自分の中でくすぶっていました」
無料会員登録はこちら
ログインはこちら