42歳、河原崎辰也が曲折経てつかんだ最高の天職 名古屋でミュージシャンとパーソナリティを両立

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「それから彼の会社の懇親会やパーティーに呼んで歌わせてくれました。そこで知り合った社員の人がまた違う人を紹介してくれて、口コミでどんどん広がっていきました。ライブに訪れてくれるお客さんも増えていきました」

その様子を見たライブハウスの人から、

「普段のライブハウスよりも大きい箱でやってみないか?」

と声をかけられた。

その会場は、最低でも150人は集めないと形にならない箱だった。

「ライブハウスって地下にあることが多いんですけど、そのライブハウスは地上にありました。

僕がボランティア活動をしていたときに知り合った、障害者自立支援団体の人たちがよく

『遊びに来たい』

と言ってくださるのですが車椅子だと地下には降りられません。その大きい会場は地上で段差もなく、会場も広いので問題なく入れて楽しんでもらえます。リスクはありますけど、その会場でやりたいと思いました」

河原崎さんにとって、文字通り、地下から地上に出るための戦いだった。

「市場の人たちも知人にチケットを売ってくれたりして、蓋を開けたら250人以上のお客さんが入ってくれました。その後も300人以上の客を呼ぶライブを開催することができて、

『名古屋でいちばん客を集めることができるバンド』

という呼ばれ方をされるようになりました。自分の歌が人にパワーを与えてるというのが伝わってきて、ライブ活動に自信が持てるようになりました。

ただもちろん全国規模で客観的に見たら無名のバンドです。そこで新たな欲がわいてきました」

(河原崎さんにお借りしたライブ写真)

ラジオとのかかわりが始まった

26歳のときにインディーズでレコードを発売し、全国販売はしたものの、もちろん聞いてくれる人は一握りだった。

河原崎さんは、強く

「ラジオから自分の曲を流したい」

と思った。

その頃お世話になっていた養成所の社長は残念ながら亡くなってしまった。

その後、社長の遺志をついで社長の奥さんが河原崎さんの面倒を引き続き見てくれることになった。

河原崎さんは、率直に思いを伝えた。

『自分の歌を多くの人に聞いてもらいたいんです。ラジオでCMを打てないですか? CMで僕の曲を流したいです。それにはいくらかかるのか金額だけでも聞いてきていただけないでしょうか』

とお願いしました」

ラジオでCMを打って曲を流せば、多くの人に曲を聞いてもらえる。そこから突破口が開けるかもしれない。

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