大久保には「人事は派閥の枠を超えてやるべきだ」という信念があった。
そこで大輔(たいふ、次官)は、井上馨(長州)に任せた。
少輔(しょう、大蔵大輔の次席)には、津田出(紀伊)、大丞には谷鉄臣(彦根)を抜擢したほか、安場保和(肥後)、松方正義(薩摩)、伊藤博文(長州)、田中光顕(土佐)など、自身の薩摩藩にこだわらず、大久保は優秀な人材を大蔵省にかき集めている。
自分が「やるべき」と考えることがあれば、自分の意見を推し通せるだけの状況を作り上げてから大胆に動く。それこそが大久保の真骨頂である。
権力を自身に集中させて内政を掌握しておきながら、大久保はまったく違う「自分のやるべきこと」に突き進んでいく。それが海外の視察である。
明治も4年も過ぎれば、欧米諸国に留学する者もずいぶんと増えた。官僚たちの手綱を握る立場である自分が、実際の欧米諸国を知らないままでは、とても組織運営はできないと大久保は考えたのだろう。
また、欧米諸国との不平等条約の解消は、一刻も早く成し遂げなければならない、新政府の大目標でもあった。
大久保は、岩倉具視を特命全権大使とする遣外使節団の副使として、欧米にわたることを決意する。副使には大久保のほか、参議の木戸孝允や海外経験豊富な伊藤博文、そして肥前から山口尚芳が選ばれている。
使節団がアメリカに向かったのは、明治4年11月12日(1871年12月23日)のこと。廃藩置県が断行されてたった4カ月しか経っていない。内政を取り仕切るはずの大久保だけではなく、これだけ政府の中心人物が日本を離れるのだから、大胆としか言いようがない。
海外視察は実に2年にも及ぶことになる。
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