「大久保利通」が41歳で初めて海外に出た納得理由 内政を取り仕切る立場ながら2年も視察へ

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それからちょうど20年が経ち、大久保は40歳を迎えた。西郷隆盛とともに倒幕を果たしたのみならず、ついに廃藩置県という大改革をやってのけた。感無量とはこのことだろう。

どんな目標でも成し遂げることは簡単ではないが、困難を乗り越えて、夢が現実になったあとの心の持ち方も案外に難しいものだ。だが、廃藩置県を契機に、俄然として輝き出したのは、西郷でも木戸でもなく、大久保である。

大久保は内政を牛耳ったあとにさらなる夢を描き、その実現に向けて動き出そうとしていた。

トップを務める大蔵省を巨大化させた理由

西郷隆盛と木戸孝允のツートップ体制を敷いたものの、内部でゴタゴタするばかりだったが、廃藩置県後にようやく中央官制の改革が行われる。改革に伴い、新しい人事体制も固まった。西郷と木戸に加えて、新たな参議として土佐から板垣退助、肥前から大隈重信が選ばれる。これにより「薩長土肥」による政権運営が形式的には整えられた。

政治組織としては、太政官は正院、左院、右院の三院制が敷かれた。正院が今でいう内閣である。左院は立法を審議する機関で、正院が任命した議員で構成する。そして、右院は行政上の連絡や調整を行う機関で、各省の長官と次官で運営されるというかたちだ。

そしてもう1つ、大きな組織変更が断行された。地方行政・民生・勧業・土木・交通通信を担当する民部省が廃止されて、大蔵省へと吸収されることになった。巨大化した大蔵省のトップに就いたのが、大久保である。

かつては大久保自身が両省を切り離したが、今回はまったく逆の動きをしたことになる。大蔵省巨大化への反発も強かったが、もはや大久保の力なしには、政務が回らないのは誰しもが認めるところ。大久保はこんな決意をもって省内の人事を一新している。

「大変革に行うには機会を失ってしまってはどうしようもない。一挙にやってしまい、運をも味方にするべし」

次ページ大久保の信念は「人事は派閥の枠を超えてやるべき」
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