天国でも地獄でもない「煉獄」はどんな場所なのか カトリックが発明、プロテスタントは存在認めず
しかし、「ルカによる福音書(新約聖書第3書)」のエピソードでは、十字架上のキリストは心がけのよい犯罪人のほうに向かって「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と保証しています。こちらのビジョンでは、死後にスピーディーに裁きがあって天国・地獄行きが決まるかのようです。
「ルカ」の16章では、金持ちの門前で乞食暮らしをしていた人物が死後にアブラハムの宴席(楽園、天国のイメージ)に行き、金持ちのほうは陰府(よみ)に落ちているという寓話を、こちらもイエス自身が語っています。やはり終末以前にある種の審判があるようです。
旧約聖書には「死後の刑罰」という発想はなかった
もともと旧約聖書には死後の刑罰という発想はありませんでした。天国も地獄もなかったのです。死者は漠然たる闇の空間―陰府―に送り込まれました(陰府は寂しい世界ですが、地獄ではありません)。
やがて、世の不正義に対する恨みから、社会全体を審(さば)く終末が希求されるようになります。他方、個人意識が芽生えるにつれ、終末前の個人の死後の処遇も気になるようになりました。かくして「死後の個別的審判」と「終末の全体的審判」のビジョンが各々増殖するようになります。この2つのビジョンは混乱したまま併存し続けます。
新約聖書の正典から外されたいくつかの文書には、天国や地獄を天使に案内されて旅するといったモチーフで書かれているものがあります。
ある書では、終末前にも複数の種類の天国と地獄があることになっています。別の書では、キリストが十字架刑死ののちよみがえるまでの3日の間に陰府に降下し、そこにいる旧約のキャラクターたち(アダムとエバ、アブラハムなど)を連れて天の楽園にいる大天使ミカエルに引き渡すという物語が説かれています。
死後の処遇は中世の間じゅう曖昧なままでした。死者は陰府で最後の審判待ちをする、死者は色々な空間に留め置かれる、完全な善人と完全な悪人は(最後の審判をすっとばして)直接天国と地獄に行く――こんなふうに、いろいろなことが説かれていました。
そして13世紀に新たな説が浮上します。「中途半端な善人かつ悪人」である大半の人間が赴く空間として、煉獄というものが発明されたのです。
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