小林薫×阪本順治「天狗だった30、40代を越えて」 70歳、63歳になった今だからこそ語れること

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阪本 順治 /1958年10月1日生まれ、大阪府出身。大学在学中より石井聰亙(現:岳龍)監督、井筒和幸監督などの現場にスタッフとして参加。89年、赤井英和主演『どついたるねん』で監督デビュー。多くの映画賞を受賞する。藤山直美を主演に迎えた『顔』(00)では、日本アカデミー賞最優秀監督賞、キネマ旬報日本映画ベスト・テン1位など主要映画賞を総なめにした。以降もハードボイルドな群像劇から歴史もの、喜劇、SFまで幅広いジャンルで活躍。その他の主な作品に『傷だらけの天使』(97)、『新・仁義なき戦い。』(00)、『KT』(02)、『亡国のイージス』(05)、『魂萌え!』(07)、『闇の子供たち』(08)、『座頭市THE LAST』(10)、『大鹿村騒動記』(11)、『北のカナリアたち』(12)、『人類資金』(13)、『団地』(16)、『エルネスト』(17)、『半世界』(19)、『一度も撃ってません』(20)、『弟とアンドロイドと僕』(22)などがある(撮影:梅谷秀司)

――阪本監督は?

阪本順治監督(以下、阪本):僕は30歳のときに監督デビューをしました(映画『どついたるねん』1989年公開)。公開時は31歳になっていましたけど、30歳の時点で映画は仕上げていて。17歳ぐらいのときから映画監督という生業を意識し出して、助手時代を経てやっとなることができたんです。

30代前半は、天狗になっていた時期ですね(笑)。『どついたるねん』の公開当時は、赤井英和くんは元ボクサーだけど、ボクシングファンが知っている程度で、まだ全国区の知名度がある俳優ではなかった。彼を主演に迎えることはある種、無謀な賭けだったわけです。アイドルを起用した映画が量産されヒットしている時期でしたし。

僕の力ではありませんが、『どついたるねん』は長期公開が実現されて日の目を見るようになり、賞もいただきました(芸術選奨文部大臣新人賞、日本映画監督協会新人賞、ブルーリボン賞作品賞を受賞)。

それ以前も謙虚というわけではなかったかもしれませんが、ボクシング映画はヒットしないと否定されていたなか、「これでよかったんだ」という結果を残せた。自分では成功を手中に収めた感覚を得られたので、鼻高々でしたね。僕が東京で顔を振ると、鼻の頭が大阪にふれると言われるほど、鼻高々でした。

小林:あははははは!

天狗になって、叱られて

阪本:若いからこその勘違いですよね。デビュー作が成功するとスポンサーがついて、連作の機会をいただけるんです。ですが、続けて作品を撮ると少しずつ、デビュー作のようなヒットが出なくなってくるわけです。そうなると、驕(おご)っていた自分に気づき始めて、スタッフにも叱られて。30代後半からは、スタッフにもよく目を留めるようになりました。

僕自身は助手時代、寝ずに仕事をしていたので「徹夜するのが当然」という目でスタッフたちを眺めていたんです。その考え方が少しずつ変わっていった。小林薫さんという名優を目の前にして口幅ったいですが、監督の仕事が100あるとしたら、俳優さんと向き合うのは50。残り50はスタッフと向き合わなければいけないと気づいたんです。

監督とスタッフが一枚岩になった現場を作らないと、俳優さんがカメラの前に立って芝居をしても、おもしろくないし楽しくないからです。しかも、「この組はうまくいっていない」という現実もバレてしまう。それは芝居にも影響するだろうし、不愉快にもなるだろうし、そういうことに気づいて実行し始めたのが、40代からです。

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