小林薫×阪本順治「天狗だった30、40代を越えて」 70歳、63歳になった今だからこそ語れること
――阪本監督は?
阪本順治監督(以下、阪本):僕は30歳のときに監督デビューをしました(映画『どついたるねん』1989年公開)。公開時は31歳になっていましたけど、30歳の時点で映画は仕上げていて。17歳ぐらいのときから映画監督という生業を意識し出して、助手時代を経てやっとなることができたんです。
30代前半は、天狗になっていた時期ですね(笑)。『どついたるねん』の公開当時は、赤井英和くんは元ボクサーだけど、ボクシングファンが知っている程度で、まだ全国区の知名度がある俳優ではなかった。彼を主演に迎えることはある種、無謀な賭けだったわけです。アイドルを起用した映画が量産されヒットしている時期でしたし。
僕の力ではありませんが、『どついたるねん』は長期公開が実現されて日の目を見るようになり、賞もいただきました(芸術選奨文部大臣新人賞、日本映画監督協会新人賞、ブルーリボン賞作品賞を受賞)。
それ以前も謙虚というわけではなかったかもしれませんが、ボクシング映画はヒットしないと否定されていたなか、「これでよかったんだ」という結果を残せた。自分では成功を手中に収めた感覚を得られたので、鼻高々でしたね。僕が東京で顔を振ると、鼻の頭が大阪にふれると言われるほど、鼻高々でした。
小林:あははははは!
天狗になって、叱られて
阪本:若いからこその勘違いですよね。デビュー作が成功するとスポンサーがついて、連作の機会をいただけるんです。ですが、続けて作品を撮ると少しずつ、デビュー作のようなヒットが出なくなってくるわけです。そうなると、驕(おご)っていた自分に気づき始めて、スタッフにも叱られて。30代後半からは、スタッフにもよく目を留めるようになりました。
僕自身は助手時代、寝ずに仕事をしていたので「徹夜するのが当然」という目でスタッフたちを眺めていたんです。その考え方が少しずつ変わっていった。小林薫さんという名優を目の前にして口幅ったいですが、監督の仕事が100あるとしたら、俳優さんと向き合うのは50。残り50はスタッフと向き合わなければいけないと気づいたんです。
監督とスタッフが一枚岩になった現場を作らないと、俳優さんがカメラの前に立って芝居をしても、おもしろくないし楽しくないからです。しかも、「この組はうまくいっていない」という現実もバレてしまう。それは芝居にも影響するだろうし、不愉快にもなるだろうし、そういうことに気づいて実行し始めたのが、40代からです。
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