アニメ界の異才・湯浅政明氏が抱く切実な危機感 映画「犬王」が室町時代の下層の人々を描いた訳
――本作では、武士や貴族ではなく、当時の社会の周縁にあった人々が活躍します。犬王は人間離れした「異形」の姿で生まれて一族からのけものにされており、その友人の琵琶法師、友魚は盲目です。ほかにも、壁を塗る職人、中世のハンセン病患者と見られる頭巾をかぶった人などが至る所に登場します。
当時のいわゆるアーティストは、社会の下層から出てきた人が多く、言い方を変えれば、彼らが上に行くためには芸能者や職人になるしか手がなかった。
社会的な身分は変わらずとも、下層から上りつめた人がいたことの象徴として、今回犬王と友魚を描きました。そして、同じような立場の人たちが彼らを応援していく。物語の始めに「犬王」と書かれたつぎはぎだらけの垂れ幕が出てくるのですが、これは彼らを応援するこうした人々が必死で布を持ち寄って作った、という設定なんです。
ただ、南北朝が統一されて室町幕府ができると、絵巻物などの当時の資料からこうした下層の人々が描かれなくなっていきます。
さらに犬王が作った能は後世に残らず、能楽の創始者として知られるのは観阿弥です。琵琶法師が語る『平家物語』も、もともとは数々の異本がありましたが、「覚一本」(かくいちぼん)が正当とされ、物語に出てくる犬王と友魚の『平家』は異端なものとして排除されてしまったんです。
こうして「いなかったこと」にされた人をアニメーションという形でもう一度描きたい、描くことに意味がある、と思いました。
メインストリームにはなれなかった人々を描きたい
――「いなかったこと」にされた人々を描く意味、ですか。
当時のメインストリームにはなれなかった側の人々を描くことで、自分と意見が合わない人のことを理解できるような世の中になればいいな、という思いがあります。犬王や友魚のように、歴史に名が残らなくてもお互いに生き方を理解し合える人がいればいいんだろうな、と。
今はすぐ「これはつまらない」「この人はダメだ」とマルかバツかでジャッジしがちですよね。でも、本来その間があっていいはずだ。相手が自分と違っていてすぐには理解できなくても、「こういうことなのかな」と自分で腑に落ちるところまで考える、肯定的に考えてみることは、大変なことである一方で面白くもあるはずです。
――動画配信サービス上で、世界中からアニメにアクセスできるようになったこともあり、アニメは今やグローバルなエンターテインメントになっています。湯浅監督もネットフリックスでの配信作品を手掛けていますが、こうした視聴環境の変化が制作に影響を与える部分はありますか。
(アニメが好きな人が多いといわれる)フランスですら、ここ数年でやっと「アニメ=子供向け」という先入観が薄れ、子ども向けではないアニメが観られるようになってきました。
とくに昔と異なるのは、世界中で同じコンテンツを観るようになったということ。観ている人の感覚も、日本と海外でそう開きはないように感じています。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら