「女性だけでなく全顧客を軽蔑」した発言の真意 資本論で解く「売れさえすれば何でもいい」心理
伊東氏の発言に憤慨した人の多くが、伊東氏が顧客に対する敬意を欠いていること、そして自社製品(この場合、牛丼)に対する愛着を持っていないことに衝撃を受けたようです。
しかし、ここで問題を伊東氏の人間性の欠陥に帰してしまうのは明らかに不十分です。資本の人格化である資本家は、使用価値に対して本質的に無関心なのです。
ですから、資本家は、自分の売っている商品をどれほどくだらないものだと内心思っていたとしても、それが売れるのなら問題ないのですし、そのとき、くだらない商品を喜んで買うお客は、資本家にとって素晴らしいお客様であると同時に軽蔑すべき存在にすぎません。
もっと言えば、資本家が商品に対して愛着や誇りを持ち、顧客に敬意を持つなど、余計で邪魔なことです。ある商品が大した利益を出さないのに、「これはいいものだから」とこだわって売り続ければ、より収益性の高い商品を売るチャンスをみすみす逃すことになります。
伊東氏は男性客についても「家に居場所のない人が何度も来店する」と授業中に発言したそうですが、この発言は、伊東氏=資本が、女性だけでなくすべての顧客を軽蔑していることを物語っています。資本家たる者、なるべく原価の安い(ゴミ同然)のものをお客に売りつけるべきであり、そんな買い物をするお客はバカ者に決まっているのですから、お客に敬意を抱いたりしてはならないのです。
「価値の実現」の局面でむき出しになる本音
このように論じてくると、「極論だ、すべての企業経営者がそのような価値観や物の見方に基づいて商売をしているのではない」という反論が出てくるでしょう。もちろん私も、すべての資本家や経営者が、上に述べてきたような徹底したシニシズムに基づいて商売をしている、と主張したいのではありません。
マルクスが指摘した重要な点は、このようなシニシズムを招き寄せ、資本主義が高度化すればするほど多くの人々がそこへ巻き込まれてゆくようになる強力なメカニズムを資本主義社会が持っている、ということなのです。
今回騒動を起こしたのが、有用な物を直接つくり出す立場の人ではなく、「売る方法を考える」マーケターであったことには必然性があります。商品を売る、すなわち「価値の実現」の局面においてこそ、資本主義の持っている本質的ロジックがむき出しのかたちで現れるのです。
そして、資本主義が高度化するにしたがってマーケティングの重要性が年々高まっていることは誰も否定できないでしょう。資本主義が高度化してゆくとは、誰もが伊東氏のように考え他者と接するようになるということにほかなりません。
何に対しても愛着を持たず、他者に対して敬意を持たない、そんな精神の持ち主が「資本主義の精神」の体現者として、企業から重宝され厚遇されます。こうした精神の砂漠へと人間文明が着々と向かっていることを、マルクスの「無関心」は予言していたのでした。
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