「女性だけでなく全顧客を軽蔑」した発言の真意 資本論で解く「売れさえすれば何でもいい」心理

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率直に言って、私は伊東氏の発言を初めて目にしたとき、「これは大事になるな」と感じましたが、驚きはしませんでした。なぜなら、「生娘をシャブ漬けに」という発言は、品の悪いものではあっても、資本主義経済における商売の考え方としてまことに理にかなったものにほかならないからです。してみれば、伊東氏の「罪」は、彼がほかの人々よりもいくらか率直であったということにしか求められません。

本当に有用性があるかどうかはどうでもよい

なぜ、伊東氏の「戦略」は、理にかなったものなのか。マルクスは、『資本論』のなかでも難解な部分として知られる「価値形態論」を展開する過程で、次のように述べています。

「商品価値は、使用価値がどんな形態であろうと、その特別の形態にたいして、無関心である」(『資本論』岩波文庫、第一分冊、116頁)。

この部分でマルクスは、商品の「価値」を分析しています。それによれば、商品が単なる有用物と異なるのは、有用性(=「使用価値」)を持つと同時に、「価値」(「交換価値」とも呼ばれる)を持つからです。使用価値は商品の質的な面を指すのに対して、「価値」は、量的なもの、すなわち通常貨幣によって測られる面を指します。確かに、商品は「売れてこそ」、つまりいくらいくらのお金で買われてこそ、その価値が実現されたと言えます。その点で、単なる有用物とは異なるのです。

マルクスが『資本論』で強調したのは、資本とはこの「価値」の無限の増殖運動だ、ということでした。「価値」は、とにかく増えたいのです。何のために増えるのか? 目的などありません。「価値」を増やすことそのものが資本の目的なのです。そして、そのような「価値」の無限増殖運動によって浸透され、その運動に適したかたちへと作り変えられてゆく社会が「資本主義社会」である、とマルクスは定義しました。

この資本の目的からすると、実は使用価値はどうでもよくなります。マルクスは、別の個所では次のように述べています。

「価値にとっては、何らかの使用価値に存在することは重要であるが、それがいかなる使用価値のうちに存在するかは、商品の形態変化が示すように、どうでもよいのである」(同、第二分冊、49頁)。

もちろん、何かしらの有用性が認められなければ商品は売れませんが、大事なのは売れさえすればよいということなのですから、価値増殖の観点からすれば、どんな有用性があるのか、そして本当に有用性があるかどうかはどうでもよいのです。マルクスが言っている、使用価値に対する「無関心」、使用価値の「どうでもよさ」とはそのような論理を示しています。

こうした論理が資本には本質として埋め込まれていることを知れば、伊東氏の発言は、「資本主義的には完全に正しい」ことが理解できるでしょう。要するに、伊東氏の言わんとしたことの核心は「バカにゴミを売りつける。それが王道だ」ということです。

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