文章が書けないと悩む人が陥っている3つの誤解 慣れてないのに難しく考え、できないと思い込む
30代の前半まで、小さな広告代理店でコピーを書いていた。31歳のときには、音楽ライターとしても活動をはじめた。そこから専門誌の編集などを経て独立し、一般誌にも活動の幅を広げた。
ところが「クオリティ・マガジン」と呼ばれていたそれらの雑誌が相次いで休刊となり、「さて、どうしようか」と困っていたところに「書評を書いてみませんか?」という話が舞い込んできた。もちろん快諾し、それから毎日書評を書き続けてきた。年に数冊は本も出すことができ、非常にありがたいことだと感謝している。そして今年、還暦である。
そんな私には、何年かに一度くらいの割合で聞かれることがある。「どうやったら文章が書けるんですか?」とか、あるいは「書けなくなったらどうするんですか?」とか、そういうたぐいだ。
現実問題として「書けない」「書くのが苦手だ」と思っているのだとすれば、まずはその理由を突き詰める必要があるだろう。
「文章が書けない」としたら理由があるはず
拙著『「書くのが苦手」な人のための文章術』の一部を引用しながら、書くのが苦手な人の共通する3つの『できない』に焦点を当ててみたい。書けないのだとしたらそこには理由があるはずで、そこをクリアできれば道は開けていくはずだからだ。
私が思うに、書くことについて悩んでいる人たちには共通点がある。「書くのが苦手だ」「書けない」と、はなから決めつけてしまっていることだ。誰かに「お前は文章が書けない!」と断言されたというのなら話は別かもしれないが、そんなことを人からいわれる人はあまりいないはずだ。
そこで、まずは「はたして本当に書けないのだろうか?」と自分を疑ってみるべきではないかと感じる。なぜなら、書けないと思い込んでいるだけだという可能性は大いにあるからである。
大抵の人が意識しなくても会話ができるようになったのと同様に、基本的には「よし、いまから書くぞ!」などと緊張したりせず、ただ書きたいことを書いていたはずなのだから。仮に作文が苦手だったとしても、ノートの隅っこにくだらないことを書いて喜んだりしたことは誰にでもあるのではないだろうか? だとしたら、それは「書けていた」ということだ。内容が高尚であろうがくだらなかろうが、その差はたいした問題ではない。
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