実は遷都でなく奠都「首都東京」誕生の歴史的事情 大久保利通は当初「大阪遷都」熱望したが転換

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「よく人にも計り、人の言をも容れた人で、一事を断裁するにも念に念を入れる流儀であったが、ただ裁決した以上は、もう何事が起こっても気が迷う、躊躇するということはなかった」

ただ、大久保のそうした態度は、物事を1つひとつ前進させるには最適であったが、やや柔軟性に欠けた。人間としての包容力は西郷のほうが上回っており、多くの志士は西郷のほうを慕っている。

小さいころから、3歳年上で先輩の西郷を追いかけてきた大久保。もとは先輩後輩の間柄から同志となり、時にはライバルとなった2人は、その性格の違いから、初めから袂を分かつ運命にあったのかもしれない。

だが、まだその時期には来ていない。大久保と西郷がうまく補い合ったときには、大きな推進力を持って改革を進めることができた。勝海舟も2人の活躍について、こう振り返っている(『氷川清話』)。

「この東京が何事もなく、百万の市民が殺されもせずに済んだのは実に西郷の力で、その後を引き受けて、この通り繁昌する基を開いたのは、実に大久保の功だ。それゆえにこの2人のことをわれわれは決して忘れてはならない」

新政府は民衆から歓迎されていたわけではない

だが、大久保と西郷を中心とした新政府による改革は、決して民衆から歓迎されていたわけではなかった。

江戸城が無血開城されても、旧幕府軍との戊辰戦争は終わりではない。慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いが緒戦となり、上野戦争、越後戦争、会津戦争と続き、明治2(1869)年の箱館戦争で終結。戦死者こそ8240人(新政府側3550人、旧幕府側4690人) と内戦の規模を踏まえると少なかったが、開戦から終結までには1年半も要している。

もともとは、徳川慶喜が大政奉還を行い、政権を返上しているにもかかわらず、薩摩藩が挑発して引き起こした戦争である。そこには「徳川家を武力討伐しなければ、世の中を変えられない」という大久保と西郷の執念があったが、倒幕派が掲げた攘夷も行われないなかで、改革の意義をこの時点で感じていた者は少なかっただろう。

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