実は遷都でなく奠都「首都東京」誕生の歴史的事情 大久保利通は当初「大阪遷都」熱望したが転換

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徳川家を挑発するために江戸で行われた乱暴狼藉は、「薩摩藩邸焼き討ち」をもってその目的を果たした。だが、その後も浪人たちの略奪は続く。東京日日新聞社会部がまとめた談話集『戊辰物語』には、次のような事件が記述されている。

「椎名町の八郎兵という豪家へ6人組の武士がやって来た。白鉢巻をして白だすきで真っ昼間、抜刀でずかずか入って来た。金をとって飯を食ってから奥の間へ入って昼寝をはじめた」

押し入られたほうからすれば、恐怖でしかない。近所に助けを求めて、騒ぎはさらに大きくなる。

「これを見て家の者が近所をふれまわり、半鐘をついたので、60人ばかりの百姓が竹槍をもって家の周囲を取り囲んだが、武士たちはあくびをしながら出てきて、にたにた笑っていたが、あっ!と思う間に真先にいた1人の頭を出しぬけに抜き打ちに割ってしまった。みんな胆をつぶして逃げ出したが、しばらくするとまた引き返して、わあわあやった」

「大阪」遷都から「東京」へと傾いた大久保利通

こんな目に遭えば、江戸幕府のほうがまだよかったと思うのは当然である。新政府への庶民の反発が強まるのと対照的に、人気が高まったのが、旧幕臣から編成された「彰義隊」だ。吉原の遊女たちから「彰義隊を情夫に持たねば恥」と言われるほどモテたという。

明治新政府への風当たりは強く、逆風のなか、大久保は西郷とともに、日本の大変革に臨まなければならなかった。

その1つが「首都東京」の誕生である。

江戸城が開城されて上野戦争が収束すると、江戸もようやく混乱が収まってきた。そこで浮上したのが、「東京遷都」だ。大久保の出した「大阪遷都」は実現こそしなかったものの、大阪行幸というかたちで、天皇を京都から引き離すことに成功した(『大久保利通が倒幕後「大阪遷都」熱弁した納得理由』参照)。

新たな遷都場所として、大久保が「東京」へと傾いたのは、前述した前島密の指摘があったからだという説が根強い。

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