「村の原理」と「都市の原理」に折り合いをつける 実は大事な「昔から続いてきた」「めんどくさい」

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何かを継承するためには、このままでは途絶えてしまう事柄が持つ意味を共有している必要があります。しかしこの事柄を継承すべきか否かを判断できる主体は、本来はどこにもいません。だから継承するかどうかは、「昔から続いてきた」という非論理的な理由に委ねるしかない。村の原理の1つの特徴は、「昔から続いてきた」というロジックが強く働いていることです。つまり、今生きている人間では判断できないことがあると認めることを意味します。そして村に暮らしていると、「昔から続いてきた」ものが持つ力を当たり前に感じることになります。人が自然を切り開き征服してつくった都市ではなく、自然の中に人が間借りして住まわせてもらっている村だからこそ、実感が伴うのです。このように考えることを、思想家の内田樹先生は「日本的情況を見くびらない」と表現しているのだと思います。

その間、私は他のことはともかく、「日本的情況を見くびらない」ということについては一度も気を緩めたことがない。合気道と能楽を稽古し、聖地を巡歴し、禊行を修し、道場を建て、祭礼に参加した。それが家族制度であれ、地縁集団であれ、宗教儀礼であれ、私は一度たりともそれを侮ったことも、そこから離脱し得たと思ったこともない。それは私が「日本的情況にふたたび足をすくわれること」を極度に恐れていたからである。近代日本の知識人を二度にわたって陥れた「ピットフォール」にもうはまり込みたくなかった。(『街場の天皇論』243~244頁)

伝統的な武道や芸事をしたり聖地を巡礼することは、生産性という観点からみると意味をなしません。でも計画を立てる段階で目的や生産数が明確でなくても、「昔から続いてきた」という理由で実施したほうがいいことがあります。現代社会はこの「昔から続いてきた」「めんどくさい」ものをコストカットという名目でどんどん排除しています。

でもそれは近代的な論理では目的がわからないだけであって、もっと長いスパンで考えた際に、つまり近代的な論理を超えた「論理」から見たら、何らかの意味をなす可能性がある。このような「論理」を甘く見ていると、日本社会は「空気」のような「論理を超えた論理」に呑み込まれてしまう。「日本的情況を見くびらない」とは、このことを意味しているのだと思っています。

自己責任と有限性

例えば、山村には山村の合理性があって、その合理性は都市のものとは異なります。だからといって山村が劣っていて、都市が優れていることにはなりません。確かに山村における地縁、血縁の「しがらみ」は個人の自由を縛ってきましたし、一個人の人生を決めつけてしまう拘束力があります。一方、都市は個人の自由が尊重され、地縁、血縁といった「しがらみ」を離れて、希望する仕事ができたり、好きな人と一緒になれたり、自由に住むところも選ぶことができます。

しかし、社会的格差が広がると、建前では自由に生きていけますが、実際には生まれで選択の幅が大幅に狭められてしまったり、競争に勝ち抜かなければ仕事に就くことができなかったり、まったく自由ではない状況もあります。都市の原理と村の原理の折り合いをつける際、現代ではすっかり顧みられることのない前近代的な村の原理に着目する必要があります。『手づくりのアジール』では以下のように述べています。

そうです、山は障害なのです。しかし障害は自由を阻むものばかりではありません。自分に何ができて、何ができないのか。それを明確にすることこそ、有限性を基礎にした自由への理解の足がかりになります。台風が来れば避難の準備をするし、火事が起きれば消防団の詰め所に集合する。障害に一人で立ち向かう必要はありません。共同墓地の清掃や地区の役員は、三年に一度は回ってくるのです。これからの民主主義は個人と共同体を行ったり来たりすることで、地縁、血縁ではなく、生態圏という有限性を基礎においた、個人同士のつながりによって構築される必要があります。(246頁)
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