Jリーグ「パワハラ指導」元常勤理事が語る問題点 「厳しい指導は美しい思い出」は根本的な間違い
――日本の指導には「安心感」がない?
日本では子どものころから、正しくあることを求められますが、行動ばかりに注目がいきすぎているように感じます。なぜそのプレーに至ったかが軽視され、今のプレーがいいか悪いか、という点がコミュニケーションの中心になっている。
たとえば、ある子どもがシュートを打つべきときに、「なぜパスを出したんだ」と責める大人が多い。それは行動に対してジャッジしているんですね。
でも、もしかしたらその子は、3分前にひどいファウルをされた相手が視界に入ってしまって不安を感じ、シュートを打つ判断がとれなかったのかもしれない。だけど、そのことを問う指導者がいない。打たなかったという行為だけを問題にすることが多いなぁと私は思います。
「問う」ことをせず「裁く」日本の指導者像
――結果だけでジャッジしてしまうんですね。
問うことをしないんですね。「どうしてシュートを打たなかったの?」と聞けばいいんです。しかし、「今のはシュートだろ」とジャッジする。指導者は裁き続けているんです。結果にばかりフォーカスして、そこに至ったプロセスを問おうとしない。
そういう関係性で積み上がっていくものは、人間性とはかけ離れたものだと思います。だから平気で人を罵倒したり殴ったりできる人になってしまうのではないでしょうか。
――「裁く」ところにパワハラの温床があると……。
日本のスポーツ界では「怖い自分」を前面に出して、"ビビらせる"ことでチームを統率しようとする指導者が多い。ですが、指導に怖い必要があるのでしょうか。豊かな関係性の構築こそが、よりよい指導環境の提供につながるのだと思います。
恐怖に縛られた選手は、つねにベンチの監督ばかり気にして、関係性の矢印が指導者に向いた状態になってしまいます。これは本当によくない現象です。
だからといってタメ口で話すなど、フランクな関係がよいといっているのではありません。スポーツというものは、自分がうまくなりたい、失敗したらもう1回やりたい、新しいことにチャレンジしたいという、自分に矢印が向いた状態でなければ、まったくもって成長はないものです。
そこをもっと指導者に求めていかなければならない。誰のためにスポーツをやっているのかということを、もっと厳しく社会に問うていかなければいけません。
――日本の指導者がパワハラ気質になってしまう背景は何なのでしょうか?
日本のスポーツは兵式体操から始まって部活動になっていったといわれています。兵式体操というのはもともと非常によいものだと聞いています。体力、知力、精神力が研ぎ澄まされた軍人像は、かつて日本人の理想的な姿ではあったんですね。
しかし、その姿が歪んで理解され、継承されてきたのが現在のスポーツ界における指導者像なのかなとは思います。
たとえば、目上の人を敬うこと自体は徳だと思いますが、上級生が下級生を呼び出して使い走りさせるのは違うと思います。そうしたゆがみが修正、補正されることなく慣習化されてしまっていることが問題なのかなと思います。
そして、それがハラスメントになる過程には、その人の暴力性という、もっと根深い問題があります。
人が過度に凶暴になるのは精神的に普通の状態ではないので、専門家にみてもらう必要があります。恍惚感や依存性が生まれているともいわれていて、そういう人にはやっぱりケアが必要なんですね。