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戦後日本と軌を一にして拡大した松下電器産業 会長退任後は国家、社会に提言し続けた幸之助

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1950年、松下幸之助が55歳のとき、事態はようやく好転した。GHQによる財閥指定などの諸制限が解除され、本来の企業活動ができるようになった。そこに朝鮮戦争特需による景気好転も重なり、松下電器産業も黒字にこぎ着けた。その年に行われた緊急経営方針説明会で幸之助は、「産業の復興を通じて、我が国の再建を成し遂げなければならない」(『夢を育てる』)と経営再建に向け意気込んだ。

戦後の復帰・再成長へ

1950年 NHKの歌番組に出演する幸之助(写真中央)(写真提供:パナソニック)

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まず行ったのが米国視察だ。経済・経営の最先端を行く米国に学び、世界企業への飛躍を目指した。現地では米GEの15の工場を見て回ったほか、1日1回は映画を観るなど人々の実際の暮らしを知ることに努めた。滞在は当初1カ月の予定だったが、最終的には3カ月に及んだ。視察を経て米国の繁栄ぶりに大いに感銘を受けた幸之助は、日本を「ぜひとも米国のようにしなくては」と決心。その決意は外見にも表れ、それまで一貫して髪形は五分刈りにしていたが、米国人が皆髪を伸ばしているのを見て、以後髪を伸ばし七対三に分けるというヘアスタイルに変えている。

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