角家:そうです。ダラスが選挙区の地元選出の議員ですね。私は彼と会って、「因果関係がおかしいんじゃないか」と言いました。日刊工業新聞が最初に書いてくれたのですが、1979年からソ連の原子力潜水艦が静かになりすぎて米国の国防総省で問題になっているという記事がある。東芝機械が輸出したのは1984年だから、本当は5年前から静かになっている。でも日本政府はそれを米国にぶつけるには躊躇していました。
「そんな大事な話をなぜ公聴会で言わなかったんだ。姿を見せないから“東芝は恥ずかしくて出席できないんだ”という話になっているぞ」「私の支店長というしがない肩書では、公聴会に出るなんておこがましいことはできません」「とんでもない。米国では事実を知る者が声を上げて、おかしいものはおかしいと言うんだ。これは大変なチャンスを潰したぞ」
もらい泣き…そして全米の議員の説得へ
とにかく従業員が書いた手紙のコピーのうちの1通をその議員からもらいました。不法移民として入国してきたメキシカンの従業員が出したものです。本人は英語が書けないので、経理の女性がタイプで口述筆記したものです。
それには今までの生活の苦労と、雇ってくれた東芝への感謝がつづられていた。それを読んで彼が感情を揺さぶられているところへ、「もう1回聞きますけれど、もうどうしようもないですか」と聞いた。しかし「気の毒だけれど、もう全議員が投票する段階まで行ってしまっている。もう何をやってもダメだな」と言う。
「もはやこれまでか」と、2万5000通の手紙も通じなかったと思うと、涙でコンタクトレンズが浮いてきてしまった。「なんだ、泣いているのか。そんなに従業員を大事にしているのか」「みんな私のファミリーですよ」と言ったら彼ももらい泣きをしてくれて、ついに自分がほかの議員を説得すると約束してくれた。
桑島:そこから、角家さんたちが各議員をひとりずつ説得していったわけですね。
角家:結局、制裁法案は通ってしまったけれど、東芝に実質的なダメージを与えずに済む方法はないかと探って、「3年間政府調達を禁止する」というところで落ち着きました。いくつも制裁法案が出たけれど、それで収めてくれた。
その頃には本社も「そんなにうまくいくのなら、ドンドンやってくれ」ということになった。最初は誰ひとり味方がいなかったのですが、テキサスやテネシーの議員が東芝擁護に立ち上がってくれ、また半導体など東芝の大口顧客からの支援の輪も全米に広がっていき、実に多くの米国人に助けられました。
その後、コロンビアでの東芝社員の誘拐事件もありましたね。武装ゲリラに社員が2人拘束されて、111日かけて助け出すんですけどね。ジャングルの中にいるゲリラと交渉したりしました。これも結局、最後はいかに相手と人間関係を作るかということなんですよ。
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