──ビートルズ「抱きしめたい」の日本語タイトルの命名者だそうですね。
1964年、来日の2年前、今からちょうど50年前に最初のシングル盤として手掛けた。
ビートルズでの僕の功績は、「抱きしめたい」というタイトルをつけたことだとつくづく思う。当時は禁句に近い言葉でインパクトがあった。原題は「I Want To Hold Your Hand」。長いから短くしなければいけない。「プリーズ・プリーズ・ミー」にしろ、3~4単語までのものは言いやすいので、そのままカタカナ表記にした。
ビートルズは世界的に人気になっていたが、当時隆盛だったラジオ局に売り込みに行っても英国の音楽は相手にされなかった。そのギャップを埋めてやろうと、よっしゃ日本で売りまくるぞと挑んだ。
──ビートルズに限らず、タイトル付けは得意ですか。
サービス精神、とにかくドラマチックに面白く伝えたいと心掛けてきた。自分で言うのも何だけど、うまいと思う。五十余年のディレクター・プロデューサー人生を、ビフォー・ザ・ビートルズ、ザ・ビートルズ、アフター・ザ・ビートルズと3期間に分ければ、ビフォーでは、ブライアン・ハイランド「ビキニスタイルのお嬢さん」やサルヴァトール・アダモ「雪が降る」、アフターでは由紀さおり「夜明けのスキャット」といった具合に、いっぱいやっている。
──一方でビートルズからの卒業もずいぶん早いですね。
ビートルズのマネジャーで同い年のブライアン・エプスタインに会ったとき、何となくひざまずくような格好になった。しかし、誰のおかげでビートルズが日本に来られたと思っているのだ、僕が売ったからだと腹立たしい気持ちが高まって、なぜかむなしくなった。そこで、後輩にビートルズを任せ、日本の楽曲をやるようになった。ビートルズをやめてからの2年間にむしろめちゃくちゃにヒット作を出した。
当時は洋楽のシェアが日本では85%ぐらい。日本人の曲は邪魔物扱い。その時代に日本人を売ってやるぞと挑んだ。ちょっと偉そうだが、日本にニューミュージック、J-POPのジャンルを切り開いたと思っている。実際、カレッジ・ポップスというシリーズを作った。今、一般の人はカレッジ・フォークといっているが、これでレコード大賞の企画賞を取った。今では日本物の楽曲が85%ぐらいに逆転している。
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