──「夜明けのスキャット」は一筋縄ではいかなかったようですね。
僕の出すレコード企画は採用されないことがない。ヒットばかり作ってきたから。だが、いくら高嶋でもこれはダメだ、ときた。歌い手は20歳の新人で、曲はワンコーラスが「ルー、ルールルルー」の歌詞。何がいいのかと。作曲者いずみたくにすでに謝礼を払っていて、もはやボツにするわけにはいかない。編成会議で早稲田仕込み(演劇科出身)の芝居を打った。東芝で落ちたらビクターで出したいと言われている。そこでヒットしても責任は私にはない。ダメだと言った人は一応、名前をメモさせてもらうと。結局、「高嶋バス」には一応乗っておこうとなった。
──メディアはまだテレビの時代ではありません。
若いやつは必ず、宣伝費がないと言ってくる。問題はアイデアなのに。東芝(音楽工業)に10年いたが、テレビのおかげということはない。由紀さおりにしてもラジオで売った。宣伝部が泣いていた。僕がテレビに出さないと言うので。フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」にしても、あの早回しのテープ音、テレビの歌番組でどうやってやるのか。出しようがないと言った。テレビがなくても100万枚売れているから必要がないと。
しかし、僕は誤っていた。黛ジュンも由紀さおりも出さないから、テレビ局から嫌われてしまった。売り込みに行っている宣伝部をそう泣かせるわけにはいかないから、結局は出演させることにした。
──歌手名の付け方もうまい?
黛ジュン、あれは僕が名付け親だ。作曲家の黛敏郎にあやかったものだ。黛という名前を持ってくることで、歌謡曲の中にインテリジェンスを入れたかった。黛の漢字は難しいように見えるが、分解すると、「代」と「黒」で、覚えるのはそう大変ではない。
──売れる歌い手の発掘はどのようにしたのですか。
自分が好きなものなら絶対にうまくいくと考えた。この子はいいと思ったらほれ込む。売ってあげたいというより、僕がこれだけ楽しいのだから、聞く人は誰でも楽しいはずだと思ったのだ。
もちろんマーケティングは絶えずしていた。カレッジ・ポップスにしても、米国のフォークソングのブームが終わって、日本の学生はどうするか。調べると、買うレコードがないので自分たちで作っているという。それがヒントで、カレッジ・ポップスのブームを演出できた。
──情報は足で稼いだ……。
よく歩いている。海外にもよく行った。かつ情報を持っている人を大切にした。東芝の旧本社は東京・溜池にあった。当時は電車の最寄りの駅から結構時間がかかった。わざわざ来ていただくことになる。そういう人にはこちらが忙しい最中でも、暇でしょうがなかったと迎え入れる。仕事は徹夜してでもこなした。そこでいろんな話やヒントが聞けた。また相手がこちらに来るべき案件でも、自分が先方に行く。相手は助かるしうれしい。行けば、会う予定以外の人にも声をかけられて、ほかの人に言おうかと思っていた、とっておきの話をしてくれたりする。これが大事。犬も歩けば棒に当たる。
──できるだけ人と会う。その機会を大切にしてきたのですね。
運も実力のうちだから、それを引き寄せようと。生まれながらにマネジャー的な素質がある。うちの兄貴、高島忠夫を売り出すため、高校生の頃から同じことを僕はやっている。人は気を使ってくれると喜ぶ。どの世界、どの仕事でも相手が気配りをしてくれると、楽しいものだ。
──後半生、80年代以降については続編になりますか。
その後のことを本にすべく書き始めている。本書と同様に、ワープロで。
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