佐藤栄作の書生から、東芝入社へ
角家:誰でもそうした危機に直面すれば、同じように立ち上がるでしょう。強いて言えば、私は山口県熊毛郡(現・周南市)にある曹洞宗円通院という寺の三男坊に生まれました。わが家は佐藤栄作や岸信介の選挙演説会場になっていたので、佐藤栄作がわが家の風呂に入って一杯飲んでいるとき、よく彼の膝の上でおもちゃをいじっていたものです。
早稲田大学の学生だった頃は、佐藤栄作の書生をしていたこともあります。だから政治家を怖い存在だとか、仰ぎ見る存在だとはあまり思ったことがないですね。その後、私は米国の大統領にも会う機会がありましたけれど、頭の中が真っ白ということはなかったように思います。
桑島:そういう環境で育ったのなら、ご自身も政治家になりたいと思ったのではないですか。
角家:思ったのですが、兄貴にどやされましてね。政治家には地盤(選挙区)、カバン(おカネの入ったカバン)、看板(肩書など)という三バンが必要なのに、お前には何もない。何を夢見てるんだと。
それで佐藤栄作の書生をやっていたとき、土光敏夫という東芝の当時の社長がよく官邸を訪問して来ているのに気がついた。土光さんは中曽根康弘さんと組んで国鉄民営化などをやった人です。それで首席秘書官に「あの人、よく来ますね」と言ったら「あれは経団連会長だ」と言う。
「どこの会社の人ですか」「東芝だ」「東芝というのはいい会社なんですか」「ああいう会社でないと経団連会長は出せないんだ」。つまり電機重電メーカーや八幡製鉄(現・新日鐵)や東京電力のような、日本の基幹産業の社長でないとだめだと。じゃあおれも東芝に入るかと思ったわけです。
それで官邸の帰りに日比谷公園を横切って、日比谷電電ビル(現・NTT日比谷ビル)にあった東芝の本社まで行き、人事を訪ねて「東芝に入りたい」と言いました。「今は採用の時期じゃない」と言われたけれど、身分証明書を見せたら、「ちょっと待って」と。しばらくして人事課長が出てきて、雑談の後、試験もなくその場で採用が決まりました。
桑島:今とは就職事情が違うにせよ、すごい話ですね。
角家:1971年に入社して、横浜市にある重電の事業場の総務課に配属になりました。
あるとき工場の敷地内で、B29が落とした大型爆弾が見つかって大騒ぎになった。私は防衛庁の組織を知っていたので、すぐ防衛庁と警察に電話して、「爆弾処理班を寄越してください」と言ったら、「きみ、新入社員なのに、なんでそんなこと知ってるの」と驚かれたこともありました。
桑島:大した新人です(笑)。米国のテネシー州への工場進出はどういう経緯だったのですか。
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