課長が「一国一城の主」として動く老舗の凄い底力 難事を切り抜ける判断力はこうして培われた

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コロナ禍を上手に切り抜ける老舗企業の創意工夫。繊維専門商社、瀧定名古屋株式会社が生き残る理由とは?(写真:shironagasukujira/PIXTA)
多くの人々の想像を超えて長期化し、すっかり常態化してしまったコロナ禍だが、多くの日本企業の経営を襲う国難であることは今も間違いない。
そんなコロナ禍を上手に切り抜ける老舗企業がある。創業は江戸末期にまでさかのぼる専門商社、瀧定名古屋株式会社だ。その経営の知恵を新刊『何があっても潰れない会社』から抜粋して紹介する。

「自分が瀧定の未来を作っていく」

瀧定名古屋株式会社(以下、瀧定名古屋)の歴史は1864年(元治1)、呉服商の絹屋(現・タキヒヨー株式会社)から分家した初代・瀧定助が、名古屋で絹屋定助ののれんを継承して呉服太物卸商を営んだことに始まる。太物とは、「絹より太い」という意味合いから主に綿・麻織物を指す。

風雲急を告げる江戸末期から明治へ、新時代の到来と共に日本の繊維業が急速に発展していたころのことだ。当時の名古屋は、周辺の岐阜や滋賀と並んで紡績業が盛んだった。そのなかで初代・定助は、もともとの本業であった呉服太物卸業に加えて金融業、不動産投資業という3本柱で資産を運用し、以降150年以上にもおよぶ瀧定の歴史の礎を築いた。

そして本業の呉服太物卸業も、その後の歴史と社会の変遷に応じ、絹や綿、麻にとどまらない幅広い繊維製品の企画開発から仕入れ、生産、販売を一貫して手掛ける一大「繊維専門商社」へと変貌を遂げていく。

今、瀧定名古屋を率いているのは初代から数えて10代目となる瀧健太郎社長だ。大学卒業後、大手化学メーカーを経て1999年(平成11)に瀧定(大阪店)へ入社、その2年後に瀧定(名古屋店)に移り、取締役を経て2018年(平成30)に瀧定名古屋の社長に就任した(瀧定株式会社は、2001[平成13]年8月瀧定名古屋と瀧定大阪に会社分割)。

現社長に至る瀧家の経緯には少々説明を要する。2代目の正太郎は、名古屋銀行専務に就任するなどもっぱら財界での活動に力を入れており、その間、本業の瀧定を支えたのは弟の広三郎だった。正太郎には子がなかったため、3代目から7代目の社長は広三郎の子や孫が入れ替わり立ち替わり務めることとなった。健太郎は広三郎の曾孫に当たる。

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