不運な人の不運がわからない「幸運な人」の無神経 水木しげるが描いた凡庸な人々の無理解と即物性

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『悪魔くん復活 千年王国』には、もうひとつ印象的な場面がある。

そもそも、一郎(=悪魔くん)が悪魔を呼び出そうとしているのは、その力を利用して、差別や貧困のない平等な世界を創り出すためだ。

しかし、常識人である佐藤には、その崇高な理念が理解できない。「背骨をシャンと」させるとか、「冷水マサツを断行」をするとか、そんな表面的なことにこだわり、悪魔くんの怒りを買って、醜いヤモリビトに変えられてしまう。

髪の毛のうすい天狗のような容貌になってしまった佐藤は、自らの運命を悲観し、たまたま入った喫茶店で、うっかり前に座った夫婦連れの客のコーヒーを誤って飲んでしまう。

サラリーマンふうの客は、当然のことながら怒り、「どないしてくれるんですかっ」と詰め寄る。

コーヒーを弁償する金もないヤモリビトの佐藤は、絶望に駆られ、苦渋の表情で言う。

「あなたがたのような幸運にめぐまれた鼻の下の長いおかたにはわからないかもしれませんが、まずしい者はよりまずしく………富める者はより富をたくわえる…というのが現実です」

むろん、こんな弁解に客は理解を示さず、あくまでコーヒーの弁償にこだわる。

その無理解と即物性にうんざりした佐藤は、顔をしかめ、「チェッ」と舌打ちをして、「この夫婦はなってない……」とつぶやく。

凡庸に生きる人々にひそむ鈍感と無神経

この世には幸運な人と不運な人がいる。不運な人から見れば、何事もなく凡庸に生きている人も幸運に恵まれているように感じられるだろう。

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かたや凡庸に生きている人はそうは思わず、不運な人に対しても同情心を持つことは少ない。その鈍感、無神経は、不運な人から見れば、人として「なってない」ということになるのだろう。

誤ってコーヒーを飲まれた凡庸な客に、みずみずしい美男子から醜いヤモリビトに変貌させられた佐藤の苦悩など、理解できるわけもない。〝幸運にめぐまれた鼻の下の長いおかた〟は、世の中にあふれている。

そう思った瞬間、果たして自分はどうなのかと、背筋に冷たいものを感じるのは、私だけだろうか。

前々回:「優等生で居続けたいと無理重ねるのがしんどい訳」(3月27日配信)

前回:「『自分は偉い』と他人を蔑む人こそ何とも空しい訳」(4月3日配信)

久坂部 羊 作家

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くさかべ よう / You Kusakabe

1955(昭和30)年大阪府生まれ。大阪大学医学部卒。外科医、麻酔科医を経て、外務省に入省。在外公館にて医務官を務めた。2003(平成15)年、『廃用身』で作家デビュー。2014年、『悪医』で日本医療小説大賞を受賞。他に『破裂』『無痛』『神の手』『嗤う名医』『芥川症』『老父よ、帰れ』『オカシナ記念病院』『怖い患者』『生かさず、殺さず』などの著書がある。『ブラック・ジャックは遠かった』『カラダはすごい! モーツァルトとレクター博士の医学講座』などエッセイも手がけている。

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