マキタスポーツ「20代の挫折」経て気づいた才能 器用さを褒められても素直に受け止められず
──大学を卒業してから芸人になるまでは、紆余曲折あったんですよね。
マキタ:大学を卒業した後、お金を貯めるために一旦地元の山梨に帰って、親戚が始めたバーガーショップで半年くらい店長やってました。それで東京に戻ってから「バンドで漫才」をやるために、バンドを結成したんですが、メンバーが「なんで漫才やらなきゃいけなんだ?」ってなってすぐに解散になったんです。
で、好きなことができないなら、機動力がいいお笑いをやっていこうって方向転換して。でもピンはいやだったから、一旦「お笑い劇団」に入って、そこの座長とコンビを組んだんです。
その頃、ちょうど東京に吉本が入ってきて「渋谷公園通り劇場」を作ったので、オーディション受けてライブに出るようになって。当時は漫才でツッコミをやってましたね。
でも相方がすぐに辞めてしまって、どうしようって思ってたときに、浅草キッドさんが立ち上げた「浅草お兄さん会」に出合うんです。
──ツッコミだったんですね! 「浅草お兄さん会」ではオトネタのような音楽漫才をやったりしたんですか?
マキタ:いいえ、当時は、お笑いやるなら純粋な漫才がやりたかったんです。一度だけ、ギター漫談のネタを作ってやったら結構ウケて、キッドさんに「いいじゃん、この方向でやんなよ」って言われたのに「こういうのは後でやろうと思ってて、今は漫才がやりたいんです」とか、くだらないこだわりで言うことを聞かなかった(笑)。意固地でしたね。
「浅草お兄さん会」のライブにはレギュラーメンバーの形で出てましたけど、実質はフリーだったので、浅草キッドが「オフィス北野」に入れるように交渉してくれたこともありました。でもスムーズにいかなくて、「だったらいいです!」って突っ張って辞退しちゃって。のちに入ることになるんですけどね。
たけしさんが笑ってくれたのがわかって凄く嬉しかった
──たけしさんと最初に話したときはどんな感じでしたか。
マキタ:浅草キッドのおふたりとたけしさんがレギュラーをやっていたTOKYO_FMのラジオ番組で、ネタをやらせてもらったときです。矢沢永吉さんのものまねネタをやって、たけしさんはシャイだからうつむいたままだったけど、時折肩が揺れているのが見えて。笑ってくれたのがわかって、すごくうれしかったのを覚えてますね。