この論文は「インフレ実感」の上昇を是としていない。これは過去に日銀が主張してきた、物価上昇を経験させることで、「適合的期待形成」(過去の状況を踏まえて現時点での予想を形成すること)のメカニズムを変えよう、というスタンスとは正反対の結論である。例えば、黒田総裁は一貫して下記のように説明しており、異次元緩和の目的の一つは人々にインフレ実感させることで、インフレ予想を抱かせることだったはずである。
「わが国では、予想物価上昇率に関する複雑で粘着的な適合的期待形成のメカニズムが根強いことにあります。(中略)予想物価上昇率が、実際の物価上昇率だけでなく、過去の経験やその過程で培われた規範などにも、強い影響を受ける、ということが示されています。(中略)人々が実際に物価上昇を長く経験すれば、物価上昇が徐々に人々の考え方の前提に組み込まれていく可能性が高いことを示すものでもあります」(2021年3月)
「インフレ実感」による「インフレ期待」形成を諦める?
「インフレ実感」と「インフレ予想」の連動性はかなり高い。日銀が行っている生活意識に関するアンケート調査の「1年前と比べた実感」と「5年後の予想」の相関係数は0.68である。したがって、「インフレ実感」を上昇させずに「インフレ期待」を引き上げることはきわめてナローパスである。日銀が「期待に働きかける政策」を掲げてきたことを考えると、このスタンスを捨てようとしているのか、という可能性すら感じる。
黒田総裁はこれまで下記のように説明してきたが、今回の論文はこれを否定することになりうるだろう。
「2%の『物価安定の目標』を掲げ、そのためには何でもやるという強く明確なコミットメントを行うことにより、人々の期待に直接働きかける」(2017年6月)
グラフに見るように、人々の物価についての「5年後の予想」は2008年12月以来の高水準である。日銀が異次元緩和を導入し、円安によるインフレ圧力が強くなった2012~2015年では、「1年前と比べた実感」は上がったものの、「5年後の予想」はほとんど上がっていなかったことを考えると、日銀にとっては待望の「インフレ予想」の上昇にみえる。異次元の金融緩和でも微動だにしなかった人々の期待は、ようやく動いたのである。
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