10月からはそこに奨学金の返済も加わった。その額、毎月約2万5000円である。
「働いていても赤字になるのは目に見えていたので副業を始めました。クラウドソーシングのサイトで、個人で動画編集の案件を受けたんです。毎日の激務の合間を縫って……というか、もはや、当時はほぼ寝ない勢いでやっていましたね」
不眠不休に近い生活を始めて半年が経った頃、恩田さんは会社を辞めて、独立することを決める。
「その生活にも限界がきていたこと、同業者から『さすがにその会社は辞めたほうがいい』と言われたことが要因です。当時は『今いる会社を辞めても、アルバイトで生活できる』という気持ちでした。実際、もらっている手取り金額だと、アルバイトでも稼げましたしね。それで、会社員時代の手取り分よりは月々稼ぐことを目標にして、フリーランスでの映像編集を本格的に始めることにして」
独立した頃はアルバイト生活も覚悟していた恩田さんだったが、売り上げは年に200万円、400万円、600万円、800万円……と順調に増えていった。
その後法人化し、現在の年商は1200万円。かなりの高年収だが、その背景にあるのは会社を退職する頃に、とある映画賞を受賞したことだった。
「会社を辞める少し前に、先輩から『自主制作の映画を撮ろう!』と誘われ、忙しい合間に制作していたんです。途中で2人ともインフルエンザになり諦めかけたんですけど、『やっぱり、完成させよう!』ともう一度誘って。
『あなたの作品が選ばれました!』という連絡があったのは、会社を辞めた翌日のことでした。そこからいろいろと変わり始めた気がします。多少は賞金もあったけど、フリーランス的には、受賞したことで仕事が取りやすくなったのは大きかったと思います」
実家の支援を得られず、大学時代からギリギリの生活を続けて努力を重ねてきた彼にとっては、受賞の吉報は、自分の生き方を肯定してくれるものだったに違いない。
奨学金は機関保障、「帰るところがない」
しかし、恩田さんは現在も冷静さを忘れていない。明日どうなるかわからないフリーランスゆえというものもあるだろうが、彼の場合は「帰るところがない」のも影響しているようだ。
「僕の場合、奨学金の保証人は親ではなく、機関保障です。時間も経ったし、僕も大人になったので、父や継母とも大人の付き合いはできています。だから、たとえば親族の結婚式の時には帰省しました。でも、多くの人が帰る盆暮れや、正月に実家に帰るという選択肢は一切ありません」
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