“超”能力主義が日本社会を覆う 『もじれる社会』を書いた本田由紀氏に聞く

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問題山積の日本社会は、悶々とした気分が立ち込める「もじれ」の状況にあるという。仕事、家族、教育の関係から社会の行き詰まりと今後のあり方をとらえ直す。

──タイトルに「もじれる社会」とあります。

ほんだ・ゆき●1964年徳島市生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。教育学博士。日本労働研究機構研究員、東大社会科学研究所助教授、東大大学院教育学研究科准教授などを経る。単著に『若者と仕事』『多元化する「能力」と日本社会』『「家庭教育」の隘路』『軋む社会』『教育の職業的意義』など。(撮影:尾形文繁)

わかりやすく表わそうとして、「もつれ」+「こじれ」=「もじれ」とこの本の帯には書いた。もじれは、もともとは単にもつれ、こじれだけではなくて、よじれる、ねじれる、さらにはもじもじする、じれるといったニュアンスを含む言葉だ。自作の造語のつもりで、ブログのタイトルを「もじれの日々」としたこともあった。それで、なかなかうまくいかなくて悶々とする日々の感覚を表そうとした。後で調べてみると、辞書にきちんと載っている。

──この本には社会をとらえる新語ないし造語が豊富です。

まだ常識という形で理解されていない事柄を指摘したいという気持ちがあり、そうなると必然的に、今まで使われてきた言葉では表現しきれない。これまでの議論を踏まえたうえで、こういうふうに呼んでみたいと、いくつか新たに表現している。

──現状をとらえるのにハイパーメリトクラシーが適切なのですか。

メリトクラシーという言葉は、業績主義とか能力主義とか訳される。私の専門としている教育社会学の中ではずっと前からある言葉。そのメリトクラシーはIQ+努力という形で定式化されてきた。イメージとしては受験学力みたいな頭のよさ、いろいろな記号、文字や数字をルールに従ってうまく操れる知的な能力をいう。

これに対して1990年代以降の日本では人間力、生きる力、あるいはコミュニケーション力、さらには独創性、熱意、愛嬌という具合に、勉強すれば身に付くものではない、人物の全体に及ぶような、性格や人格と切り離せないことが評価されるようになってきた。

この広く観察される評価の対象を表現したくて超メリトクラシー、すなわちハイパーメリトクラシーという言葉を使った。これは限定なしの人間丸ごとを対象にしており、大まかに言えば柔軟かつパワフルに、どこでもすばらしい力を発揮できる人間たれとなる。しかも、こうあるべしとの圧力が蔓延してきたことを言いたくて、ハイパーメリトクラシーという表現を大いに使っている。

バシッとした物差しはない

──ハイパーメリトクラシーは必ずしもいい面ばかりではない。

そう。いろいろな悪い面がある。第一、そういう人間力的なものをどうやって測るのか。バシッとした物差しはない。計算の正確さや記憶力といった知力であれば、ペーパーテストで測れるのに対して、人間力や当意即妙な機転の利かせ方、それこそ愛嬌といったものは関係性の中で現れる。いわば評価する側によって勝手に決められてしまう。評価される側からすると身ぐるみ剥がれて、まな板の上に載せられているようなものだ。これまでのメリトクラシーに比べてずっと苛烈。それがないと見なされたときには、根こそぎ否定されることにもなりかねない。

たとえば就活自殺や就活うつが指摘されている。就職活動の中で何十回も就職試験に落ちるうちに自分が全否定され、まったくダメなやつとの烙印を押されたと考えるようになってしまう。逆にハイパーメリトクラシーの下でうまく振る舞える人間には、育ちや経験、幼い頃からの人間関係が反映されている。経済的、文化的、さらには人間関係に恵まれている家庭の子が人間力的なものを身に付けやすい。それだけ、不平等の促進にもつながりかねない。

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