──一軒家のオフィスが好みですか。
両拠点ともついそうなってしまった。京都は今年6月からだが、自由が丘でそういう環境がしみ付いたようだ。大きなビルで働いていた時期もあったが、閉じ込められている印象があって落ち着かない。
もともと出版という仕事は街行く人を見下ろすような感じでやっていくものではない。一市井の人間として、路傍にある石のような小さな声を拾い、それを編集によって形にして、読み手に届けるのが媒介者としての出版の仕事だと思っている。そこにいるだけでも四季を感じられる場所で仕事をする。そうした環境で働くことがより血の通った本になるかどうかの分かれ目になるという気がする。
──京都オフィスには一隅に書店もあります。
「ミシマ社の本屋さん」を復活させた。1階の和室で毎週金曜日11時から17時まで開店している。そこでは本をちゃぶ台に並べている。
「それ、絶対にいいよ」
──以前は、京都オフィスは市内ではなく城陽市にありました。
その土地ごとでそれぞれの声を拾って形にする出版社がないと、東京から発信されるものだけが日本の声になってしまう。それが日本の多様性を失わせて、ますます画一化させる。それに対して何ができるか。そこで、地方で出版社を手掛けることを創業時から思い続けてきた。城陽には書店もオープンさせた。
最初に出版社を作ろうと思い立ったときに、内田樹先生に「それ、絶対にいいよ」と言われ、背中を押してもらった。ただ続けて、「関西でやらないの」と。その一言が私の心に重く響いた。当時、まずは東京で、いずれは関西でやりたいと思っていたが、しばらくは自由が丘を維持するので手いっぱいだった。
──2011年の東日本大震災直後に城陽オフィスを構えました。
3・11の当日、たまたま知り合いが城陽市に空き家を持っていることを聞いた。原発不安が高まる中で、これはすぐに城陽に行ってしまおうと、聞いた30分後には社員に連絡して、パソコンや本の在庫をワゴン車に詰め込んで深夜に移動した。
翌日には普通に働けるような早業だった。行ってみると東京の空気と全然違う。以前とそれほど変わらない日常があって、瞬く間に冷静さを取り戻した。落ち着いて今後のことを話し合う中で、この機を逃したら永久に関西での出版活動はできないと思い、ここを拠点にしようと踏み切った。その後、関西では地元の出版社と思ってもらえ、同郷の近しさで、同じところを目指していこうやという雰囲気がけっこう出てきた。
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