「好奇心を持ち、追求する事」が感性を豊かにする 新しい価値や情報を手に入れると視野も広がる
それで本当に理解した気になってしまうと、その先に得るものはありません。「わかりました」という言葉を安易に使わないようにしてみましょう。
私が「わかる」について考えるようになったきっかけは、以前に通っていた禅の講習会で、和尚さんに「わかるとはなんぞや」と言われたことです。
心理を悟ること、体得することを「証得(しょうとく)」といいます。お釈迦さまが悟りを開かれたとき、それはどんな境地だったのでしょうか。「迷いの世界を超え、真理を体得する」という先にあるものは、現代に生きる私たちには計り知れないものがあります。
悲しいかな、私たちは悟りの境地にはたどり着けません。でもそれは、いつまでも前に進み、成長し続けられるということでもあります。みなさんが知っていること、わかっていることは、本当にそれ以上知る余地もないくらいに、完全に「証得して」いるものでしょうか?
新しい知識や魅力に出会うチャンスを逃す
「わかった」と思ってしまうことは、知らないことへの理解や、好奇心を湧かせる冒険の入り口を閉ざしてしまうことでもあります。自分の体験でまとめてしまうことで、さらなる知識や魅力と出会える可能性を閉ざしてしまうのです。そう考えると、簡単に「わかった」とは言えなくなりますね。
自ら可能性を閉ざさないかぎり、好奇心の扉は開かれ、あらゆることから深く吸収し、感性を高めていけるのです。
■「100年使えるもの」を買ってみる
100年使えるようなものを選んで、買ってみましょう。100年は自分の人生以上です。つまり、次世代のために何かを選んで購入するということです。
おそらく、視点がガラッと変わるはずです。自分のためだけに買うわけではないので、「所有」ではなく、「一時的に預かっている」感覚に近くなります。子どもや孫にいつか渡すモノを、「今、預かっている」という感覚です。
たとえば、着物は時代を超えて、次世代にも引き継ぐことができます。自分が数十年間だけ愉しむために高価な着物を購入するのは勇気のいること。でも、子どもや孫のため、2代にも3代にもわたって愉しめると思うと、価格への感覚が変わってくるのではないでしょうか?
着物以外にも、たとえば有名な絵画や、名物と呼ばれるお茶碗などの美術品は、さらに長い時間を生きるものでもあります。もしあなたがゴッホの作品を持っているとしたら、その価値は自分が亡くなったあとも続いていくということは想像できるでしょう。
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