「監視国家中国」を笑えない日本の「硬直社会」 「根回し」と「一国二制度」から考える日中の本質
五百旗頭:中国が変わりうる可能性は、どういうところから出てくるかを考えると、中国という国家は、もともと政治が社会に対して没交渉だった。しかし、現在では、さまざまな技術・テクノロジーの発展があって、過去には見られないくらい社会に手を突っ込んでいます。手を突っ込めば、当然反作用もあるわけです。政治が社会の変容を促し、反作用で政治も変容する可能性が出てくるのではないか。
岡本:そうですね。ご指摘の点については、私自身、大変関心があって注視しているところです。たしかに今、中国は変わりつつあるのだろうなという感じはしています。それがどのくらいのタイムスパンで変わっていくのか。
中国の人たちは西洋発のテクノロジーや技術を大変好んでいて、迎合的に変わる可能性もあると思います。ただ、これが行き過ぎると、中国の伝統が働いて、政府・当局が拒否反応を示すことになる、その辺は注目すべきですね。
監視社会・中国の実態
五百旗頭:今回のコロナをめぐる対応で印象的だったのが、武漢からの邦人避難の際のオペレーションです。武漢市内や郊外に滞在していた日本人は、みなフリーパスで空港まで来させて、飛行機に乗せて日本に帰すことになっていました。政府や省政府との間では話がついていて、スムーズに進むはずでした。ところが、結局、郊外の町や村を出ようとすると、そこで止められるんですね。つまり、上の指示が下まで浸透してない。
やはり中国は国土が広く、人も多いので、上から浸透しているようでも完全ではない。したがって、テクノロジーを駆使した監視技術と、本来の人間による監視の仕組みの両方が残っています。
いまテクノロジーによる監視社会に焦点が当たっていますけれども、人による監視システムがだいぶ残っている点も重要です。人による監視なので、ムラがある。体制の逆鱗に触れない限り、社会の中で何かを行おうとすると、かなり好き勝手にできるというか、自由が実際はかなりあるという印象です。
自由が行き過ぎると、あるいはビジネスがうまくいって大きくなりすぎると、共産党が出てきて、年貢を納めろ、みたいなことになるのですが、そこまでの存在になっていれば、もう中国の若者たちの夢は叶っている。むしろ、日本のほうがなにか狭苦しくて、自由は尊重されているようでいて、実は自由ではない。システムに基づく同調圧力が社会の中で強く残っているような気がします。
岡本:その通りで、逆なんですよね。日本は自由を尊重しますと言っているのは、自由がないからです。一方、中国が強権発動します、権力政治ですというのは、皆、自由でありすぎるからです。
小ぢんまりまとまっている日本や西洋のほうが、もともと自由がないので、その自由を獲得します、保証しますという、そういう体制ですよね。中国のほうは、もう、何をやっていてもよいので、一つにまとまらないから強権を発動しますという、そういうシステムです。
五百旗頭:そういう部分はなかなか変わりそうもないということでしょうか。
岡本:そこですよね。結局、今、中国の人たちが割とおとなしくしているのも、自発的におとなしくしているわけです。要するに当局が提供してくれるいろんなサービスがわりと好みに合っているし、当局がそれを利用して監視したとしても、人民の側では利便性が高いので、進んで選択しているというのが現状で、実際には政府と人民とがウィン・ウィンの関係でうまく回っている。これは史上、少なくとも数百年間あまりみられなかったことかもしれません。ですから問題は、その関係がどこまで続くかですね。