アジア史から見えてくる「日本史×中国史」の核心 日本が「中国化」せず「西洋化」に適合した理由
五百旗頭:そのような中国のコピーを日本に持ってきたところで、うまく機能しなかったということですね。
岡本:そうですね。加えて、日本でどれくらい寒冷化の影響があったかも、日本史だけ見ているとわかりません。
しかし、ユーラシアでは、寒冷化の影響で遊牧民の南下や社会秩序の混乱が生じるので、律令制度なども意味があるのですが、日本の場合はまだ国家ができていたかどうかもわからない状況ですので、中国から制度のコピーだけを輸入したところでうまくはいきません。「公地公民」などはあまり機能してなかったと思いますね。
中国より欧州との相性がよい理由
五百旗頭:それと比べると、明治以降、西洋からの輸入のほうがうまくいったと言えますね。ユーラシアの東西の端で実は文脈が似ていた、ということになるでしょうか。
岡本:時代がずいぶん隔たっていますから単純に比較はできませんが、西洋の場合は、かなり準備期間もありましたし、予習もしていた気がします。江戸時代の鎖国期が予習期間になったでしょうし、それ以前に中国からいろいろなものを取り入れる中で、社会全体がリテラシー的なものを身につけていたことが大きい。
さらには、権力の成り立ちや社会の同質性といった点で、日本は中国より西洋と似ていますから、その文脈で、西洋の輸入のほうはうまくいったのだと思います。やはり、いちばん板についてないのが中国だという感じがしますね。
五百旗頭:日本は極東の島国です。島国は海でつながっているので、海外の影響はすぐに来るんですよね。しかし極東だから欧米からは離れているので、脅威や刺激を感じるのは早いけれど、本当に塊としての脅威が到達するまでは時間がかかる。その間の準備期間というのは、かなり取ることができたという気はしますね。
岡本:おそらく律令とか、あのあたりのものは準備期間がなかった。あるいは、準備をする社会層、人的な資源といったものがまだまだ乏しかったような気がします。あの時期には一度に何もかも中国から朝鮮半島経由で入ってきて、あるいは、入れないといけなかった状況だったのだろうと思いますが、消化不良のままになってしまった。
古代史のことはよく実態がわからないけれど、列島の中だけで、あるいはせいぜい朝鮮半島の南方とだけ交流生活していればよかった牧歌的な「神話」時代だったのが、隋唐帝国が突如あらわれて、朝鮮半島も受けたそのプレッシャーが列島にも及んでくると、それなりの国家をつくらないといけなくなった。そこでむこうの文物・典籍・制度を体系的にとりいれざるをえなかったわけですが、その際、儒教も、仏教も、漢字も、律令も、ほとんど一時に入ってきてというようなプロセスだったと思います。
五百旗頭:日本史を通観したイメージとして、中国とは付き合いが長いから多くの面で影響を受けているが、西欧の民主主義や立憲主義といったものは表面上受け入れたけれども、まだまだ足りないところがあるといった言説があります。岡本先生の著書では、中国については過大評価してもニガリ程度だと(笑)。やはり西欧は似ているところがあるから、うまく取り入れることができた、という指摘はなるほどと思いました。
岡本:ニガリというのは、実は内藤湖南が言ったことです。内藤湖南はじめ明治の人たちは、それ以前の日本の独自性を強調したい人たちですので、その分を割り引かないといけませんが、それでも中国の影響はニガリ程度でしかないという指摘は真理を突いていると思います。
五百旗頭:摂取の度合いと距離が実は比例してないというのはとてもおもしろい。日本と欧米は離れているので、脅威や、あるいは魅力を感じたスタート地点から、実際に到達するまでの期間が長い。したがって、コンプリヘンシブ(=総合的)に摂取するんですよね。
だから、西洋諸国の軍事的脅威に対峙するために軍事力が必要だと考えますが、すぐに襲来することはないので、軍事力の源泉となる経済をまず強化しようというのが大久保政権の意義だったと思います。また、経済の源泉には国民の教育や、国民参加、国民の責任感があるという木戸孝允たちの立憲政導入論も興ります。
軍事が大事だと言いつつ、際限なく源泉にさかのぼっていく。そして、それを先に具備しようという形で議論が進んでいくというのが、極東の島国としての日本のパターンという気がします。