浅田次郎が「架空の母」崇める還暦男女を描いた訳 「母の待つ里」理想の故郷にすべてが崩れ落ちる

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俳優の中井貴一が、本書刊行にあたって「愚直に人生を積み上げてきた者たちが求める心の原風景」とのコメントを寄せている。東北の山奥、いささか古臭いほどの、普遍の故郷。

浅田は、都会人の3人が偽の故郷にすっかり呑み込まれてしまう仕組みをこう種明かしした。「あの丘の上。ちょっと山の中腹にある、あの曲がり家を見上げたときに、お母さんが必ずいる。3人とも母親と同じ出会い方をしてるでしょう。あれは彼らを束縛していた縄がほどける瞬間なんだよ。だから出会いのときだけは、判でついたように同じシーンにしている」。

都会でサウナがはやるわけ

本書の表紙に描かれているのは、その場面だ。いわば「ふるさと体験テーマパーク」のメインアトラクション入り口に都会人が踏み入った瞬間なのである。寺の角を曲がり、タンポポに彩られた坂道を登り、丘を見上げた先、坂上の曲がり屋の縁側で、「おーい、おーい」と優しく呼ぶ年老いた母が自分を待っている。「みんな、そこでやられちゃうんだよ。『けえってきたが』って声をかけられたとたんに、何かこう、すべてが崩れ落ちるというか。ラスベガスに足を踏み込んだとたんに、自分の良識や既成概念がボロボロと崩れるみたいなさ」

ラスベガスで自分の良識が崩れる話は、ラスベガス通いで知られるギャンブラー浅田ならではの例えだ。「やっぱり皆、良識やら何やら思い込んでるものなんだよ。これがほどけ落ちる瞬間というのは快感だと思うよ。だからさ、今、急にサウナブームになったじゃない? あのね、サウナっていちばん簡単にそういう感覚を獲得できるのよ。汗とともに自分がとろけ出す。錯覚なんだけど、ほかのことを考えない。もう何でもいいや、これ耐えるだけ、みたいな。サウナブームってのは、大都会ならではのものだね」

ふと、浅田は鞄の中から本書の生原稿を取り出した。浅草・満寿屋(ますや)の赤罫、「浅田次郎用箋」との名入り原稿用紙に、万年筆の流麗な手書き。これを写真に撮りたいという人が多いそうだが、さもありなんと思うほどに美しい原稿だ。実は几帳面な性格の表れで、連載の1回1回にタイトルを記しているという。推敲の跡が少ないのは、浅田の文章が、原稿用紙に書きつけるときにはすでにほぼできあがっているからだ。

これが浅田次郎氏の生原稿だ(撮影:尾形文繁)

「原稿用紙が珍しがられる時代がくるなんて思ってもいなかった。これは比較的直しの少ないほうだね。疲れてくるとやっぱり字が乱れるんだよ。僕は書くのはすごく遅いよ。平均したらどうだろう、文章を頭のなかで1回組んでからだから、1枚書くのに1時間かかってるんじゃないかな。文章というのはさ、そのことを表現するのに幾通りもあるわけじゃないんだよ。書き方は幾通りもあるよ、でも最善のものは1つなんだよ。最善のものは1つだという覚悟を持っていなければならなくて、その覚悟が欠けていたときに、ああいうふうに直しが入るんだな。とくに動詞、形容詞を使うときは、細心の注意を払わなくてはならない」

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