一方、能力主義的な社会運営を徹底させると、生まれながらの才能や教育の格差に大きな「運」のリスクが生じる。仮に、人が生まれる前に意思を持っていたら、能力が乏しく生まれたり、貧乏な家に生まれたりする「不運」が怖くて、安心して生まれることができまい。
「新自由主義」的な経済運営を実現するためには、こうしたリスクに対する強力な保険が必要だ。さまざまな理由で経済的に困窮状態に陥った人が、社会的な保険で手厚く救われることが好ましい。
この点について、新自由主義者は反対するものではないし、主唱者としてよく名前が挙がるミルトン・フリードマンは、経済格差の修正と困窮者へのサポートになる効率的な仕組みとして「負の所得税」(その実質的な効果は今で言う「ベーシックインカム」に近い)を提唱した(新自由主義全般の中身については、『資本主義と自由』村井章子訳、日経BP社を参照)。
「大きな政府」の定義を見直せ
少なくともフリードマンは「格差の拡大を放置せよ」とは言っていないし、その修正の方法として効率的に最善に近い方法を提案していたのだ。
1つ重要なのは、「大きな政府」の定義を見直すことだろう。
例えば、国民1人に1カ月当たり7万円のベーシックインカムを支給するためには、105兆円の財政支出が必要だが、この105兆円は国民の間で再分配されるだけで、政府が公共事業への支出のように資源配分の決定にかかわるわけではない。
両者を単純に足したものをGDP(国内総生産)で割って「政府の大きさ」として定義することには問題がある。古くから議論されているように、政府の支出は民間経済よりも非効率的である場合が少なくない。
「大きな政府」が問題だとされるのは、この文脈による。ベーシックインカムのような再分配のマネーフローは、政府の意思決定による資源配分を意味しない。使うのは国民であり、民間だ(だから、ベーシックインカム的なバラマキ政策は官僚に嫌われるのだろう。予算を食うのに権限がない)。
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