「手作り」から出発、亀田グループの秘話 亀田クリニック院長・亀田省吾氏に聞く(前編)

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 千葉県鴨川市にある亀田クリニックの亀田省吾院長は、亀田四兄弟の末弟として亀田グループの経営の中枢を支え続けてきた。電子カルテの本格的導入の世界的な先駆者となったことをはじめとして、つねに先進的な取り組みにチャレンジ。その視座の高さは、一病院にとどまらず、地域の発展や地域経済の運営にまで及ぶ。しかし本人に聞くと、決して「チャレンジではなく、必然的かつ常識的な取り組み」だという。規制も厳しく、しがらみも多いと言われる医療業界において、なぜここまで自然体で新しい風を取り入れてこられたのか、まずはその生い立ちからお伺いした。

成長が遅かった乳幼児期

三宅:亀田クリニック院長の亀田省吾先生は、四兄弟全員がお医者様で、病院経営のみならず医療従事者の教育など、幅広い事業を展開していらっしゃいます。亀田グループというと、医療業界では日本初、時には世界初の新しいことに挑戦なさっているという印象がありますが、今日はその背景となるお考えからお聞きしたいと思います。まずご兄弟のお話や子どもの頃の育った環境の様子からお話しくださいますか。

亀田:いちばん上の兄の俊忠が今65歳。現在は病院の仕事はしていなくて、東京でセミリタイア生活を送っています。2番目の隆明が61歳で、医療法人鉄蕉会の理事長をしています。私と信介は実は双子で、58歳になったところです。信介は亀田総合病院の院長をし、私が亀田クリニックの院長という役割分担です。

私と信介は双子でかつ8カ月の未熟児として生まれました。当時もすでに保育器はあったのですが、管理が悪いと未熟児網膜症になるなどの問題があったため、父が保育器には入れないと決めたことで、真夏に生まれたのに湯たんぽでくるむようにして育ったそうです。つきっきりでみていてくれたおかげで、なんとか育ったわけなのですが、普通の子に比べて成長が遅くて、初めて歩いたのが生後1歳8カ月のときでした。

三宅:初めて歩くのが1歳8カ月とは、そうとう遅いですね。

亀田:ほかにもいろいろ成長が遅かったのですよ(笑)。あまり遅いから、幼稚園のときに東京の愛育病院で知能テストを受けさせられたのを覚えています。結果的には、問題はないと言われたのですが、それを受けて、3歳か4歳の頃から父による体を鍛える教育が始まったのです。自宅は千葉県鴨川の海沿いで、周りに何もない大草原の小さな家のようなところでしたから、そこで鍛えられました。

台風になると家まで波が来てしまうから避難する。台風が去ってから戻ると、庭に打ち寄せられた魚がぴちゃぴちゃ跳ねているようなところでしたよ。

三宅:そういえば、その頃の亀田病院はまだ小さかったのですか。

亀田:30床くらいだったと思います。病院は祖父よりずっと前の代からあったのですが、戦争で祖父と父が2人いっぺんに召集されてしまって、親戚の医師がなんとかつないでくれていた状況でした。働いてくれる人も不足していて、事務長が庶務を兼任するような感じで、看護師を合わせても何人もいませんでした。

それを復員してきた父が立て直したのですが、当時、結核が国民病という時代だったので、結核の手術や診断を行う肺外科として再出発させました。その頃は本当に小さい病院だったにもかかわらず、たとえば断層撮影というレントゲンの機械を千葉大より早く入れたりしましたよ。

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