亀田:病院が大きくなるきっかけは、結核療養所として、東京から患者さまが来られるようになったことですね。そのサナトリウムを海岸側に造って、自分たち家族は海辺の松林の中に引っ越しました。
私の父はなんでも自分で作るのが大好きで、私たちが幼稚園の頃、庭を掘って3メートルのレンガのプールを作ってくれました。小学校に上がる頃にはそれをもっと大きくしようと、私たち兄弟が皆で25メートルのプールに作り替えたんですよ。
「昭和の秀吉」のような父親
三宅:25メートルのプールを? しかも手作りで!?
亀田:そうなんですよ(笑)。このプールは今も防火用水として使っています。全然、水が漏れないから大したものです。未熟児だった私と信介を鍛えるため、父の厳しい鍛錬がそのプールでも行われたのですが、小学校3~4年生の頃になると、夏はそのプールで毎朝1500メートル泳いでからでないと学校に行ってはいけなかったのです。しかも学校まで1.5キロの道のりを必ず走って行かなければならなかったんです。
三宅:水泳とランニングなんて、あと自転車を足すと立派なトライアスロンじゃないですか(笑)。
亀田:私たちがバスに乗るといけないから、現金を持たせてくれないのです(笑)。その代わりのどが乾いたら飲み物はツケで買っていいと言われていましたけど。
その後、病院は結核療養所として大きくなってきたわけですけれど、抗生物質が普及してきて、結核患者が激減してきました。それを受けて亀田としてどうすべきかということを議論した結果、この地域には総合医療機関が全然なかったので、総合病院を造ることにしました。最初は総合病院としては最小規模の200床強だったと思いますが、ニーズに応じながらツギハギして増築を重ねてきました。その建物も途中までは全部手造りでした。今は何棟かに分かれていますが、昭和57(1982)年までゼネコンをいっさい使っていないのです。設計はもちろん外の設計士に頼みましたが、棟によっては院内に建築士事務所を置いて自前で建てました。
三宅:プールだけでなく、病棟まで手造りですか(笑)。
亀田:はい。最初の病院は農閑期の農家の方々を集めて、それこそ父が現場監督をして造ったんですよ。
三宅:まるで「昭和の秀吉」ですね。農閑期の農民を使って自ら指揮をとって城を造るというクダリがありましたよ。
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