亀田:さらに面白いことには、看護学校を作るような仕事は、実際には母がしていたのですよ。父は医者で技術屋だから、役人との交渉などが苦手。すぐケンカになってしまう。だから父は「これをやる」とだけ言って、それを実際に実現していくのは母なのです。病院の建物を建築するときだって、セメント、鉄筋、砂利の買い付けまで全部母がやっていたのです。経営の事務回りなどもすべて母が担当です。
三宅:なんだかスケールが違うお母様ですね……。
兄弟で共同生活
亀田:それで私たちは全員東京の麻布中学校・高等学校に入ったので、中学から兄弟だけで東京で暮らしているんですよ。お手伝いさんがひとりいるだけで、親の監視がない生活ですから、自分ではそんな自覚はないけれど、人から見たらワルだったかもしれません。
三宅:いったいどんな悪いことをしたんですか?
亀田:酒場に出入りする程度ですよ(笑)。私たちが中学生の頃、いちばん上の兄はもう大学生で遊び人でしたから、夜、電話がかかってきて「お前ら、今から出て来い」と六本木や赤坂の酒場に呼び出される。カラオケなんかない時代ですから、流しの伴奏で双子の私たちが歌なんか歌うと喜ばれるわけ。それからやはり兄に京都の舞妓さんを紹介されて、彼女たちが「京都に遊びに来て」と言うので新幹線に乗って京都に行ったら、京都駅のホームに祇園の舞妓さんがずらっと並んでお出迎えしてくれたこともありましたね。あとはボクシング、スキー、アイスホッケー、ラグビーなど、運動もずいぶんやりました。
三宅:遊びもスポーツも子供の頃からスケールが違いますね……。そんな中で、ちゃんと医大に進んで医者を目指された。やはり将来はお医者さんになると決めていたのですか。
亀田:気がついたらなっていたというか。やっぱり蛙の子は蛙という環境だったのだと思います。それに、もしほかの仕事をするにしても、医者になっておいて悪いことはないので。
三宅:医者になることを運命づけられているような環境ですが、そのことに反発はなかったですか。
亀田:私たちはほとんど反抗期がなかったんですよ。なぜなら中学生のときから親と離れて住んでいたから。親のありがたさは離れるとわかります。困ったときに助けてくれたという感謝の気持ちしかないのです。
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