「難問にぶつかった」リーダーが知るべき超発想 そんな時に手本にしたい渋沢栄一の"柔らか頭"

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随分と矛盾した選択をしたわけですが、渋沢のなかでは柔軟に考えた結果でしょう。このまま国事犯で追い回されていたら、何もできない。それよりは一橋の家臣となって、これまで経験してきた農商の才覚で一橋家が抱えている経済的な問題(財政破綻)を解決し、財政を再建できれば、その功労者としての発言力は大きくなるはず。そうなれば、一橋家全体を倒幕にも向けられるのではないか、と彼は楽観的に考えたようです。

財政再建というとむずかしそうに聞こえますが、武士の感覚で会計をしているから収入と支出のバランスがおかしくなっているだけのこと。藍玉商人でもある渋沢の目から見れば、そこを調整するのはさほどむずかしくありませんでした。

実際、すぐに財政を立て直すことができ、その功績が認められた彼は、勘定組頭にまで出世します。その上、主人の一橋慶喜が15代将軍になったため、渋沢も幕臣の身分を得て直参旗本となったのです。

フランスでは商人と軍人が対等に会話

さらに慶喜の弟である昭武に従って、渋沢はパリの万国博覧会に出張することになりました。フランスでは、商人と軍人が同じテーブルで対等に話をしている現場を目撃。渋沢はカルチャーショックを受けました。日本では考えられない光景であったからです。

江戸期の商人は士農工商の一番下の扱いで、武士と同席することはおろか、対面はきわめて冷遇されたものでした。これからは、日本も身分制度をなくさなければならない、と渋沢は強く感じたのです。

しかも、海外では商人が力を持つのは、カンパニー(株式会社)制度で大量のお金を集められるからだと知ります。また、バンク(銀行)は多くの人々から資金を集め、大きな事業に投資し、その利益を出資者に還元するというシステムであることが、明らかとなりました。

「これなら日本でもできる」

ちなみに、バンクを銀行と訳したのは、“三井”の大番頭・三野村利左衛門であり、それを日本に定着させたのは渋沢でした。彼は、本当は「金行」としたかったのですが、江戸時代の日本は金銀並列制で、実際の商取引は銀が主体でした。渋沢は自案に固執せず、ここでも柔軟に対処しました。いずれにせよ、明治日本は渋沢のシステムによって、一気に近代化を推進したのでした。

日本とのあまりの違いに絶望するどころか、むしろやるべきことを次々と見つけて、喜び勇んで日本に帰国した渋沢ですが、明治維新で幕府は消滅しており、慶喜は将軍職ではなく、上野から水戸、静岡へと謹慎の身の上となっていました。しかし渋沢は気落ちせず、できることから始めようとします。フランスで見てきたカンパニーを日本に作ろうとしたのです。

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