いきものがかり「ハイエース1台で旅」したあの頃 水野良樹が「結成20周年の節目」に想うこと
「多くの人々を元気づける歌を」
そんな歌を求められ、自分たちも同様の願いを込めて歌をつくることがある。
しかしそれは簡単なことではない。
言葉とは難しい。誰も傷つけない言葉などありえないからだ。その言葉は踏み越えてはならない一線を越えてはいないか。触れてはならない誰かの傷をえぐってはいないか。甘く優しい愛の歌も、愛からはぐれてしまった人にとっては、ときに刃物より深く心を刺す凶器となりえる。幸福を願う歌の淀みのない眩しさは、幸福を手にできずに苦心する人にとっては、どんな風雪よりも荒々しい暴力になりえる。
「毒にも薬にもならない人畜無害の歌ばかり書いて」と自分はこれまで幾度も揶揄されてきた。だが、あえて言葉を返すのなら、皮肉ではなく事実として、何者も傷つけない無害の歌を書くなど、本来は途方もなく難しいことだ。
姿かたちが丸く柔らかで、口当たりがよいポップソングを「人畜無害」であると疑いも葛藤もなく信じていられるのなら、それはあまりにも幻想と楽観に浸りすぎている。自分はまだ「人畜無害」の歌などにたどりつけてはいない。
ただそこにある桜
まさに今、深い悲しみにあえいでいる人がこの歌を耳にしたら、何を思うのか。
その問いの周りを情けなく彷徨(さまよ)いながら、それでも覚悟を決め、その時々に出す答えに身を懸けて、祈るような心情でいつも自分は歌を書いている。
だから思う。泰然と、ただそこにあることで、多くの人々の心に寄り添うことのできる桜のような歌をいつか書けないか。
喜びも悲しみも。始まりも終わりも。
出会いも別れも。未来も過去も。
希望も、そして絶望も。
人々は実にさまざまなことを桜に重ね合わせてきた。
桜は何もしていない。何も語ってはいない。
春が来て、咲き、そして散る。
ただ、それだけだ。そのありのままを見せることで多くの心を受けとめてきた。
あの人はもういない。咲き誇る桜を見たとき、去年までは隣にあったはずのぬくもりが、もうここにはないことに気づく。同時に、その声を、その笑顔を、ともにした日々を思い出す。寂しさも悔しさも懐かしさもいとしさも、あふれ出る。
それでも、明日を生きていかなくてはならない。
止まらぬ残酷な時の流れのなかを、歩いていかなければならない。
決意する。希望を探す。その人はもう一度、顔を上げる。
そこでは、ただ桜が咲いている。
歌も、そうなれるのではないか。
ただそこにあって、誰かの心と向き合えるものに。
そんな歌を僕はつくりたい。
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