とはいえ、合理主義的国家観は間違っています。ヨラム・ハゾニーが『ナショナリズムの美徳』で論じたとおり、裸の個人など存在しません。私たちは家族に帰属し、そこにアイデンティティーの基盤を見いだす。当の基盤は、家族から氏族、部族へと広がり、やがて国家にいたる。国家は手打ちをする相手ではなく、拡大された自分自身、文字どおりのボディー・ポリティック(政治的身体。「統合により一体化した国民」を意味する表現)なのです。
無駄とゆとりを失った大学
古川:中野さんのご指摘は大学改革にもまさに当てはまります。大学改革の目的も結局は経済成長で、特に「イノベーションの創出」ということがしきりに言われます。第1回で触れた菅前首相の「稼げる大学」というのも、それを露骨に表現したものです。
それに対して、主にリベラル派の人たちは「大学を経済成長の道具にするな」と怒っていて、それはそれで正しいのですが、私のスタンスは少し違っていて、むしろ「経済成長したいのなら、まずは大学改革をやめてください」ということを言っています。
イノベーションの問題がわかりやすいと思うのですが、そもそもイノベーションそのものを意図的に起こすことはできません。歴史をみても明らかなように、これは学者たちが自由に研究する中で、偶然起こるものだからです。突然変異で出てきた新しい個体がたまたま環境に適応して大当たりをとるという自然進化のメカニズムとよく似ています。したがって、イノベーションを起こしたいのであれば、かつての日本のように大学に自由に使えるお金を落とし、学者たちに時間的余裕を与えて自由に研究させるのが、実は一番の近道なんですよ。
これは「偶然が生起する余地を意図的に設計する」ということです。ここには「無駄を許容する」ということも含まれるので、いっけん非合理なのですが、実はこちらのほうが、より高次の意味で「合理的」なのです。しかし、改革派はこの逆説がわかっていないので、ひたすら無駄を削ぎ落し、偶然を排除するということを「合理的」と称してやり続けている。その結果、かえってイノベーションが生起する余地をどんどん奪っているわけです。