施:政治学の世界では、トクヴィルが中間団体がなければ民主主義は成り立たないと言っていますね。教会やギルドなどがこの中間団体にあたります。
中野:そうです。これは政治学や社会学の定説と言っていいと思います。
ところが、戦後の日本では、丸山眞男や桑原武夫など、いわゆる近代主義者たちがこうした議論を逆転させ、日本には前近代的な遺制が残っているから自由民主主義が根付かず、不合理な戦争に突入していったのだなどと言っていました。
その結果、戦後の日本は、前近代的な要素を徹底的に取り除く必要があるとして、中間団体をはじめ、とにかく市民が自発的に選んだもの以外はすべて排除するようになりました。それが加速したのが、平成の構造改革です。これは、特に丸山眞男の影響力が大きかったと思います。
柴山:中間団体が「圧力団体」とのみ捉えられて、それを排除しなきゃダメだという話になったわけですね。
社会契約論自体が、もともと新自由主義的
中野:それが特に顕著だったのがアカデミズムの世界です。私は大学生のときにある憲法学者の授業をとったことがあるのですが、彼は「憲法の役割は個人を丸裸にして国家と対決させることだ」などと言っていました。私はそれを聞いて「ああ、この人は、トクヴィル的な意味における反自由主義者だ」と思い、授業に出るのをやめました。法学部への進学をやめたのもこれがきっかけです。それくらい当時は「個人」が強調されていたのです。こんな教育ばかり受けていれば、新自由主義者が増えるのは当然ですよ。
佐藤:社会契約論自体が、もともと新自由主義的なのです。裸の個人が、国家に帰属することのコストとベネフィットを合理的に計算、コスパがよさそうだから国家の一員になったという発想ですからね。主流派経済学には「合理的経済人」の概念がありますが、近代の政治学は「合理的政治人」を前提にしています。
近代主義、ないし合理主義にこだわるかぎり、憲法とは個人と国家の「手打ち」の条件をまとめた文書でしかありえない。この発想が、新自由主義者として知られたマーガレット・サッチャーの有名な発言「社会など存在しない。個々の男女と家族、それに政府があるだけだ」を思わせるのは偶然ではないでしょう。